夜の画廊で

                                
2015年5月  開設


 
 
 
          旅人は待よ
          このかすかな泉に
          舌を濡らす前に
          考えよ人生の旅人
          汝もまた岩間からしみ出た
          水霊にすぎない


                西脇順三郎


 


                 

 

 
    
2016年11月      「28」

          核実験禁止へ、カザフの挑戦
  
      カザフスタンの画家カリプベク・クユコフさんの絵
        =2016年8月29日、アスタナ【時事通信社】
     


   
   


   もう遠慮しない

   中央アジアのカザフスタンで夏の終わり、核実験禁止を世界に訴える国際会議が開かれた。かつて旧ソ連構成国だった
  カザフでは冷戦時代、ソ連軍が核実験を繰り返した。当時は秘密にされていたが、カザフの住民が受けた放射線被害は
  深刻で、影響は今も続く。ユーラシアの草原に刻まれた深い傷を世界が忘れないよう、カザフは核廃絶の声を大きくしてい
  る。(時事通信外信部 松尾圭介)

   カザフ北部にあったソ連のセミパラチンスク核実験場はソ連末期の1991年に閉鎖された。25周年となる記念日の今年
  8月29日、首都アスタナで会議は開かれ、各種分科会も含め、カザフ外務省によると、50カ国以上から200人を超える参
  加者が会場を埋めた。ナザルバエフ大統領は「25年前、世界最大の核実験場をカザフは自ら進んで閉鎖した。(91年の)
  独立後も(旧ソ連が残した)核兵器を一方的に破棄した」と演説、隣国ロシアや中国をはじめ核廃棄に動かない核保有国に
  いら立ちを示した。

   さらに「もう遠慮するのはやめよう」と呼び掛け、「我慢するより、核兵器のない未来に向かう活動にもっと注目すべきだ」と
  強調。新たに「核軍縮賞」を創設し、ノーベル平和賞のように毎年表彰する案を提唱した。

   「勝手に実験場にされた」二つの国

   会議前、アスタナ市内の博物館で偶然会った会議参加者の一人が気さくな感じで、冗談を織り交ぜながら盛んに話し掛け
  てきた。太平洋の島国マーシャル諸島の国会議長だという。このケディ氏に「60年前、日本の漁船が被ばくしたビキニ環礁が
  ある国か」と愚問を発したところ、「ブラボー・シュリンプのことだな」と目つきが変わった。「ブラボー」は54年3月1日、第五福
  竜丸を襲った核実験の作戦名で、「シュリンプ」は使われた水爆の名だ。

   インタビューを依頼すると、米国への強い憤りからケディ氏の話は止まらなくなった。シュリンプは高性能火薬TNT換算で15
  メガトンに達し、広島に投下された原爆(推定15キロトン)に比べ「威力は1000倍だ」とケディ氏。

   マーシャル諸島での核実験は、ソ連がフルシチョフの時代となり、「雪解け」に伴って終わる58年まで12年間続いた。
  米ソ軍拡競争の最前線にされたマーシャル諸島で、原爆は水爆になる。ケディ氏は「広島の原爆1.6発を毎日落とされ続けた
  のと同じだった」と放射線被害のすさまじさを訴えた。第五福竜丸と同じ死の灰を浴びた島の住民がマーシャル諸島にはいる。
  「ロンゲラップ環礁の人々が今どうなっているか調べてみてほしい。ロンゲラップだ」と繰り返した。

   ユーラシア大陸の中央に位置するカザフスタンと、太平洋の中央に位置するマーシャル諸島は、ソ連と米国という大国によっ
  て「勝手に核実験場にされた」(マーシャル諸島のケディ国会議長)。共通の思いが二つの国を結び付ける。

   激しい怒りの原点は、今も暮らしの傍らで目にする放射線被害だ。核実験が繰り返された頃、体に異常を抱えて生まれてきた
  子供たちは既に成人している。

   両腕のない画家

   セミパラチンスク核実験場から約100キロ離れたエギンドイブラクという村で1968年、両腕がない状態で生まれたカリプベク・
  クユコフさん(48)は今、画家として世界的に知られている。アスタナでの核軍縮国際会議に参加するため会場に現れると、各国
  の記者団やテレビカメラが次々取り囲んだ。
    8月の終わりのアスタナは、夜になれば気温8度、肌寒い夕暮れの通りでは、セーターを着た女性が家路を急ぐ。しかし、昼は
   気温25度の夏に戻る。両腕のないクユコフさんは、テレビ撮影のライトを浴びても汗が拭けない。親族の少女が走り寄り、受け
   答えの合間にハンカチで顔をなでて助けていた。

   申し訳なかったが私も交ぜてもらった。幼少時、足の指で鉛筆を挟んで砂に描いた絵が、画家になる出発点だったという。
  昔は「周りに似たような病気の子がたくさんいた」とクユコフさん。しかし、ソ連では「どういう症状かが、そもそも核兵器に絡む機密
  だった」。うかつに周囲に話せない。幼くして死んでいく子が多かったが「静かに葬儀だけが繰り返されていた」のを覚えている。
  死を身近に感じてきた体験から「生きているうちに1枚でも多く絵を描いて残したい」と強く望んでいる。

  ゴルバチョフ政権末期の89年、ベルリンの壁が崩壊した年は、カザフにとっても初めて反核運動が起きた激動の1年だった。
 クユコフさんも「人々が一気に語り始め、秘密だった病気の情報がどんどん公開され始めた」と人生の転機として振り返った。

 カザフ外務省には、クユコフさんと同じ状況の子供たちの写真がたくさん飾られていた。

   北朝鮮は「制御不能」?

  軍縮会議が始まる直前、カザフスタンのイドリソフ外相が外国人記者のインタビューに応じた。米オバマ政権が世界各国に「核実
 験の停止」を求める国連安保理決議採択を目指した点について問われると「大賛成だ。反対する理由が分からない」。一方で、包括
 的核実験禁止条約(CTBT)が1996年に国連総会で採択されながら米国など「発効要件国」の批准がなく、今も宙に浮いている問
 題に対しては「恥を知った方がいい」と強く批判した。

 中でも世界で現在唯一、公然と核実験を繰り返している北朝鮮について「制御不能に近づいているのではないか」と懸念。中央アジ
 アから見ていても「このまま誰も止められない状況が続けば、やがて不測の事態が起こり得る」と東アジア情勢への危機感は強い。
 外相は「取りあえず6カ国協議を再開してみてはどうか。何らかの形で北朝鮮と関係国の話し合いを始めてほしい」と提案した。

   また「核兵器を取り巻く状況は昔とは違う」とも強調。過激派組織「イスラム国」(IS)をはじめ、アフガニスタンを通じ中央アジアに
  も不穏な影を落とすイスラム過激派の問題を念頭に「核兵器がテロリストの手に渡る危険が今や日常的に存在する」と訴えた。
  冷戦時代とは全く異なる世界情勢が現れていることに、もっと注意を向けて核軍縮を考えるよう呼び掛けた。

  こうした中で被爆国、日本への期待は大きい。「昨年は安倍晋三首相がカザフを訪れた。今年はナザルバエフ大統領が日本に行く」
  と語り、関係強化へ意欲を見せる。両国は来年、共に国連安保理非常任理事国として手を携えていく。カザフの思いをどこまで受け
  止めていけるかが問われることになる。

  アスタナの会議には、日本からも政府代表として滝沢求外務政務官が参加。「核兵器を使用する非人道性を認識し、現実的、実践
 的な措置が必要だ」と演説した。日本人からすればいつも通りの呼び掛けの言葉だが、会場内外でより激しい発言が飛び交った中で
 は、ややおとなしく見えた。

 


 
     
2015年3月    「27」

        「画狂老人卍」

   飾 北斎(かつしか ほくさい)、1760年10月31日生ー1849年5月10日没。江戸時代後期の浮世絵師。
  姓は川村氏、幼名は時太郎、のち、鉄蔵と称す。通称は中島八衛門。
  


   北斎の幻の傑作が発見されたというニュースを読んだ。驚いたね。こんなことが起こるとは、なるほど、
  芸術の生命力というのは世紀を超えるものなのだね。
  私も若い頃はカザノヴァに憧れて神技四十八手についてあれこれと研究もし実践の修行も積み重ねた
  経験があるが、ある日、肉体的にも技術的にもそういう超人の世界に飛翔する天性も能力もないことが
  分かり、そこで神仙の魔境の住人となることは諦めた。
  そして、今は只の風狂無頼である。
   その頃、小島政治郎(1894-1994)の小説『飾 北斎』を読んだことがある。小島さんは燕子桜
  という俳号を持つ俳人でもあった。その本は昭和46年に光風社書店というところから発行されたもので
  定価950円だった。もう50年も昔のことだ。これは記憶に頼って言っているのではない、実は、その本
  を今膝の上において開いているのだ。
   これは小説だから、あくまでも創作であって書かれてあることの全てが事実ということではない。例えば
  北斎と写楽の関係などである。
   「彼の一生の不幸は、年若くして写楽に死なれたことと、お砂に死なれたことと、晩年一番彼女を必要
  としていた時に、突然お豊に先立たれたことだった。
  彼女はまだ三十八歳の女盛りだった。いい女だったし、亭主と子供を大事にすることしか知らないような
  女だっただけに、彼は途方に暮れた。」

   とは言え、今回読み返してみて小島さんならではというか、この作品の持つ魅力も少しばかし分かった
  様な気もした。小島さんは随筆の達人でもあった。小島さんの文章の持つ江戸趣味的な「粋」とは、随筆
  の骨法である。
   『言志四録』で有名な佐藤一齊についての批判をさらりと書いている。

   「崋山が幕府に罪を得た時、一齊は災いのわが身に及ぶことを恐れてだろうか、捨てて願みなかった。
  ところが、肥後の人松崎慊堂(まつざき こうどう)は、弟子でもない崋山のために雪冤の文章を綴り、実
  際にも幕府に向かって免罪の奔走を惜しまなかった。」

   そして、この小説の最後がなんとも美しい。
  上下二段組みの321頁の結びの三行を書き写す。

   「彼は大木の根っこのような存在だった。
    その根はいつでもみずみずしい芽を吹き出しそうな生命力を持っていた。
    彼の生命力は、八十を四つ五つ超えても衰えなかった。」
   
  

 

   
   





 北斎肉筆の隅田川 幻の傑作、墨田区取得へ

   江戸時代の絵師、葛飾北斎の作品を集め二〇一六年度に開館する「すみだ北斎美術館」(東京都墨田区)は四日、
  コレクションの目玉として、百年以上所在が分からなくなっていた
  肉筆画「隅田川両岸景色図巻(りょうがんけしきずかん)」を一億四千九百四万円で取得すると発表した。 (中村信也)
   図巻は、縦二八・五センチ、横六三三・五センチ。北斎の肉筆画では最大級とされる江戸情緒たっぷりの作品だ。
  隅田川の台東区側から墨田区側を望む構図で、柳橋から両国橋、吾妻橋などのほか、途中で描き手の視点を変え、
  日本堤や吉原の遊郭の屋根も描いている。
  図巻には遊郭の座敷で、北斎とみられる男性が、うりざね顔の遊女四人と戯れる姿もある。区の担当者は「北斎かどう
  かは今後の研究が必要だが、晩年ではない四十六歳の自画像は珍しい」としている。
   描かれたのは、一八〇五(文化二)年で、北斎が四十六歳の時。「落語中興の祖」といわれる戯作(げさく)者で今の
  墨田区内の緑(みどり)に住んでいた烏亭焉馬(うていえんば)に頼まれ、その自宅で描いたことが分かっている。
  作品の存在については、明治期に酒田(現山形県酒田市)の豪商出身の政治家が所蔵していたことが分かっていた。
  いつ海外へ流出したかは定かではないが、一八九六(明治二十九)年に西洋で初めての北斎研究書とされる、エドモン
  ・ド・ゴンクール著「北斎」で、画商の林忠正のコレクションとして紹介されている。
  林の帰国に伴い、一九〇二(同三十五)年にフランスの国立競売場「ドゥロウ」で売却され、以後は行方不明になった。
  一部の研究者が「壮年時代の北斎の傑作」として注目していた。
   区が購入に動いたのは、二〇〇八年に競売会社「クリスティーズ」に出品されて日本人画商が落札したことから。
  担当者は「制作年代の明らかな風景画であるうえ、隅田川両岸の風景を詳細に描いた唯一の作品として貴重だ。
  陰影を用いた独特な描写は、他の北斎作品には見られなかったもので、研究上、極めて注目される」としている。
   「冨嶽三十六景」などで知られる北斎は、現墨田区亀沢付近に生まれ、生涯の大半を区内で過ごしたとされる。
  美術館は、JR両国駅に近い緑町公園内に区が建設中で、一六年度に開館する。区は、今回の作品購入には区内篤志
  家から寄せられた寄付金を充てるという。
   <葛飾北斎(かつしか・ほくさい)> 1760(宝暦10)年~1849(嘉永2)年。江戸後期を代表する浮世絵師。
  幼少時から浮世絵を学び、90年の生涯で約3万点の作品を残した。
  代表作に「冨嶽三十六景」など。版画のほか、肉筆画も多い。作品は海外でも広く知られ、ゴッホらに影響を与えたとされる。

 
 



     2012年7月   「26」


   「ペイネの恋人たち」

                  レイモン・ペイネ(1908・11・16-1999・1・14)

      明日は恋なきものにも恋あれ
       明日は恋あるものにも恋あれ


  1908年パリ生まれの漫画家。技術学校エコール・デザール・アプリケを卒業後、漫画の道にはいる。
 第二次大戦中はレジスタンスの一員だっただけに「恋愛賛成、戦争反対」がモットー。ときおり鋭い諷刺を見せるが、
 多くはメルヘン風のタッチで恋人たちの愛の姿を描きつづけ、世界中で親しまれている。
 南仏にあるペイネ美術館によると、訪問者の九割は日本人だという。
 漫画のほか、挿絵、舞台装置、アニメーション、衣装デザインなど幅広く活動した。
 1953年国際ユーモア賞受賞。
 1989年「海と島の博覧会ひろしま」のために「愛と平和のモニュメント」を制作した。1999年歿。

                                                     みすず書房 

     幸せの鳩
 

     
                  



  懐かしい絵である。いつ見ても心がやすまる絵である。
 恋人たちが二人だけの時間をもっと大切にしたら、そのことが人生にとってもっとも重要なことであると考えたならば、
 おそらくこの世から戦争はなくなるだろう。
 恋を知ること、恋を楽しむこと、恋を生き抜くこと、それ以外に大事なことなどありはしない。

      
 明日は未だ愛さなかった人達をしても愛を知らしめよ 愛したものも明日は愛せよ 新しい春 歌の春
 春は再生の世界 春は恋人が結び 小鳥も結ぶ 森は結婚の雨に髪を解く
  明日は恋なきものに恋あれ 
    明日は恋あるものにも恋あれ

    「ヴィーナス祭の前晩」
                                西脇順三郎 



     2012年6月               「25」


     瓢箪で鯰を押さえる、さて、どうやって

   方向音痴の伝書鳩が「チェンジ、チェンジ」とオバマの物真似をして悲願であった政権の座についたが、結局は何も
  変えられずに退場した。その跡を継いだのは元市民運動家というのが唯一の看板の泳ぎ上手な空き缶野朗だったが、
  これも何曜日だかの廃品回収日に消えた。そして三代目はどこかの大店な御用聞きのような巧言令色の腐れ鯰であ
  る。それにしてもだ、どうして次から次とこういうお馬鹿が出てくるのだろう。どれもこれも余りに軽薄であり、余りに不誠実
  である。
  一度はなってみたい総理大臣か、しかし、なって何をするのだ。いや、そもそも何をしようとして政治家になったのか、
  それが分からない。
  伝書鳩は他にやることもなかったので暇潰しに家業を継いだだけのことであり、空き缶野朗は広場で優しいお婆さんと
  知り合うという幸運を掴んだということかもしれない、3番目の腐れ鯰は若いときに電気屋の色好みの道徳爺さんが経
  営する塾に通っていたということだが、早い話が電気ナマズの誕生である。なるほど損得勘定は達者なようであるが、
  事業上の損益分岐点についての知識は国民の幸福には何も関係はないだろう。
   この腐れ鯰は何かと言うと「命を賭ける」と古い仁侠映画のような台詞を得意としているが、所詮はB級映画の二流
  の仇役である、さっさと退場するのが世の為人の為、いやご本人の為である。
  そこでだ、この老骨も尊師芭蕉の風雅の誠を守るべく、「命を賭けて」古池を騒がすこの電気鯰を退治することにした。
  野にも田にも広く網を打って大量のナマズを捕らえてジャパニーズ・キャット・フイッシュのブランドでアメリカ南部へフラ
  イの原材料として輸出する、我ながら素晴らしい計画であると思う。全て事業というものは経済的な裏付けがなければ
  ならない、と私は思うのだ。河川漁業の再興のためにもこの計画は一日も早く実現しなくてはなるまい。問題はナマズ
  の漁獲量ということだが、なに心配することはない、河川・湖沼ばかりがナマズの生息地では ない、今日では永田町
  へ行けば数え切れないほどの脂の乗ったナマズが蠢いているよ。
  


     
      瓢鮎図

           京都・退蔵院    1幅 紙本墨画淡彩  国宝


   


      


    如拙

  室町時代の禅宗画家、生没年不詳。〈にょせつ〉とも呼ばれ、応永年間(1394~1428)に活躍期をもつ。
 足利将軍家と関係の深い相国寺開山の建碑計画に参与している。

 《三教図》(両足院)に著讃している絶海中津の讃文によれば、〈大功は拙なるが如し〉の意から大功如拙の
 名を得たという。
 代表作《瓢鮎図(ひょうねんず)》(退蔵院)は、足利将軍(義満あるいは義持)が〈如拙をして座右の小屏に
 新様をもって画かせた〉ことが讃文に記されている。
 現存作品は少ないが、当時舶載移入されていた中国南宋時代の院体画風を意識的に取り入れて作画した
 ことが知られ、周文以下雪舟にいたる室町水墨画の先駆者として位置づけることができる。

                   『世界大百科事典』平凡社
 


    
     2012年5月               「24」

       
          ルネ・マグリット

                                    1898~1967   ベルギーの画家

     嵐の海に浮かんでいるこの巨大な白い影は何だ。いや、これは影ではなく実体なのか。
    もしもそうであれば嵐の海の方が幻想であって、この巨大な白い鳥こそが現実を超えた現実ということになる。
    それはまだ眼球には見えぬ何ものかであるが、確かにそこに、数歩先のそこに絶対的現実としてある。
    1937年(昭和12)に小林武雄氏らが結成した「神戸詩人クラブ」のモダニズム詩人ら7人が、40年3月
   、兵庫県警特高課に逮捕された。
    世にいう神戸詩人事件である。
    ・・・・・・1941年、瀧口修造はその前衛思想を危険視され治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。
    瀧口の師はあの西脇順三郎である。

 


   
        「 大家族 」
                  
 
           
    

 

    妖精の距離
                   瀧口修造




   それは辛うじて小鳥の表情に似ていた
   それは死の浮標のように
   春の風に棲まるだろう
   それは辛うじて小鳥の均衡に似ていた

   詩は形を持たぬ
   という頑なな認識があり、私を捉えてはなさない。
   書いているときの
   ペンや鉛筆が紙を擦っているが、
   これはこれで別の何かの仕事なのか?

   言葉は処えらばず
   遣って来て、掠めて去る。
   私はおんなの名を呼びたいと思うとき
   のように、その名を探している。

 
 







 




        2012年4月   「23」


               
 「叫び」


          
 エドヴァルド・ムンク(1863・12・12~1944・1・23)

  
私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。
 私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと
 町並みに被さるようであった。
 友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を
 貫く果てしない叫びを聴いた。


                                   
            ムンクの日記から


 
  

   

  


  私がニーチェを初めて読んだのはもうずいぶんと昔のことで、それを読まなくなったのもやはりずいぶんと昔のことなので、
 その体験がどういうものであったかは今ではなにも思い出せない。
 最初に読んだのは『この人を見よ』(岩波文庫)だったと思う。
 「君たちが理想的なものを見るところに、わたしは見るのだーーー人間的なものを、ああ、あまりに人間的なものを!」と、
 ニーチェは言った。

 その当時の私にとっての問題は、この哲学者が軽蔑した「人間的な、あまりに人間的な」ものが何であるかということであった。
 この本の中でニーチェはこんなことを言っている。

 「ドイツでは、(もっとはっきりいえば)「帝国」では、あまりにも多くの人間が、然るべき時の来ないうちにおのが進路を決定し、
 やがて、投げ出せなくなった重荷の下で病み衰えてゆくという悲運を担っている・・・・こういう連中が、阿片を求めるようにワー
 グナーを求める。ワーグナーを聞いて彼らは我を忘れる、一瞬自分から解放される・・・・いや、一瞬ではなかった!五、六時
 間は自分から解放されるのだ。」と。
  ワーグナー的なるものとは何か、それは理性ではなく感情にバイアスをかけてくる攻撃的な大衆運動の陶酔と興奮に他なら
 ない。音楽が一人の個人の精神に訴えるのではなく(たとえばモーツルト)、匿名の多数者の不満や欲望を呼び起こすとき
 (たとえば君が代)政治の場ではそれはファシズムという形をとる。
  そういう意味でワーグナー現象の典型を挙げるとすれば、過去においては関東大震災時における朝鮮人虐殺である。
 そして今、東京・名古屋・大阪の三都で起きていることがそれである。
  それは、「倭人的な、あまりに倭人的な」ということではないのか。
  私も叫びたいのだ。「いやだ!」と。
 


 
     2012年3月         「22」


    「永遠に理解し合えない二人  

    ポール・ギュスターヴ・ドレ(1832・1・6~1888・1・23)
                         フランス人、版画家。



    赤頭巾ちゃんと狼 

        
        文明と自然

  性欲と食欲の狭間でどちらが誘惑しているのか、町からやってきた性悪娘と森の自然児オオカミ君
 との出会いは確かに不幸であった。
 この事件についての解釈はいろいろあるだろうが、この神聖な森に対してどちらが侵入者であったか
 はあまりに明白である。
 娘の目を見るがよい。
 これは暴力に怯えている者の目ではない。
 キリスト教徒が野蛮な異教徒を見るときのあの眼だ。
 さてどうやって騙してやろうかというときの、あの眼だ。
 つまり、この事件はでっち上げということである。
 暴行が先にあったのではない。
 事の起こりはこの性悪娘の田舎の純情青年に対する極めて文化差別的なからかいと挑発である。
 その目的は、この森の所有権を騙し取ることにあった。
 シャルル・ペローの証言によると赤頭巾とそのおばあさんは周辺では有名な拝み屋だったそうだ。
 グリムの証言によるとこの拝み屋仲間には銃を持った男もいるそうだ。かなり大掛かりな美人局の闇
 組織であったということだ。
 これは冤罪である。
 この調書は悪質な作文である。
 なによりもこの絵が真実を語っているではないか。
 オオカミ青年の左の前足と後ろ足を見よ。どちらも外側に向いているではないか、この青年はこの場
 から立ち去ろうそしているのだ。それを娼婦のような眼差しで引き止めているのはこの界隈で通称「赤
 頭巾ちゃん」と呼ばれている魔女の見習いなのである。
 絵本を読むときに大事なことは、先入観を持って頁を開いてはならないということである。

 
 


        2012年2月   「21」

       「生活図画事件」

  
 
  
   荒川版画美術館   


  荒川のほとりに開設されたこの美術館には、中標津ゆかりの木版画家である「松本五郎」氏、
 中標津町在住の「細見浩」氏、故「根本茂男」氏の版画作品が展示されている。

 古いサイロを再利用した小さな美術館で、2001年11月3日開館。
 サイロの上部を使った円柱の2つのギャラリー、それをつなぐように木造のギャラリー兼ロビー
 を備える。


  北海道標津郡中標津字俣落2000-2
      佐伯農場内

 
          
 
   根本茂男
 (1916ー1998)
画歴
1980年- 北海道新聞社文化
教室版画講師を10年担当

1984年  平原社美術協会北海
タイムス賞受賞

1985年  平原社美術協会帯広
市議会議長賞受賞
音更町文化事業協会会員

1987年  平原社美術協会会員に
推挙される

1993年  帯広市版画協会設立に
参加 会員となる

  松本五郎 
(1920-)
画歴
1949年  中標津美術サークル会員

1955年  帯広市版画協会会員

1966年- 各校で児童生徒版画集発行

1984年  高校美術講師 地域美術振
      興に取り組む
細見 浩 
(1936-)
画歴
1971年  新世紀美術協会会員

1979年  新世紀美術協会退会

1977年  北海道版画協会会員

1984年  北海道の美術 
       '84イメージ「道」出品

1995年  北海道木版画家展
   (ボストン:木版画の摺の公開)


   世の中は広いというか、深いというか、いろいろな処でいろいろな人がいろいろな事をやっているようだ。
  僕はここで観光案内をしようとか美術批評を試みようというのではない。第一、そんな能力や知識は欠片も持ち合わ
  せてはいない。ただ奇妙な縁というか、僕も中標津とは少なからぬ関係を持ったことがある人間の一人である。
  もっとも、それはあまりにも遠い昔のことなので、思い出すことは一つもなく、時おり古いアルバムを開いては、そこに
  映っている人物や風景が僕の過去の一部なのだと確認するだけである。それが今、還暦の祝いの酒とともに中標津
  がまた僕の人生の中に還ってきた。
   まあ、私事はさておき、思うに、人が真の自己を発見するのはどんな土地でもあるいは年齢でも良いというようなこ
  となく、やはりそれは特権的な体験と言うべきもので、そうしたある土地とある人間との出会いは奇跡的とも思えるも
  のがあって、しかし同時にそこには精神が定めた方向性がもたらしたところの必然があることも否定できるものでは
  ない。
   上に中標津の荒川版画美術館が所蔵する三枚の絵を紹介した。その中に松本さんの描いた一枚の絵がある。
  メランコリックな顔をした牛の絵である。ふと、絵というものは何を描こうとも、それは描いた本人のある日ある時の
  自画像なのかもしれない、とそんなことを考えさせられた。
  松本五郎さんは、まずもって画家である。そして自らが描くばかりでなく、多くの子供に絵を描くことを教えてきた人で
  もある。つまり教育者でもあったということだ。何故、そういう生き方を選んだのかということを考えてみる。
  今ここに一冊の本がある。
  本の題名は『自画像』、サブタイトルは「松本五郎の足跡・生活図画事件を体験した美術教師」
 、著者名は松本五郎
  となっているが、これは一般的な意味での自叙伝とか自分史と言うようなものではない。その意味はあとで述べる。

  巻末に載っている年譜によれば、松本さんは昭和21年中標津町西竹に戦後開拓者として入植し、翌22年に友人の
  小松氏の妹であるミドリさんと結婚した。
  そして22年、地区住民の要請により開拓小屋で教育を行うとなっている。この時、松本さんは28歳であり、これが
  教育者としてのスタートである。
  つまり、松本さんの戦後は荒地の開拓者として始まったのであり、最初から教育者(有資格者ではないという意味だ
  けだが)ではなかったということだ。もっとも、開拓者でない教育者などというものが存在するとも思えないけれども。
  その間の消息を語るものとして敗戦後ソ連で5年間の捕虜生活の経験を持つ、開拓時代の友人である一木春夫氏
  (82歳)の言葉を書き写す。

 
  「松本五郎先生は、戦後の西竹開拓期を語る時に必ずあげられる人物である。先生は他人に真似のできない忍耐
   力のある人であった。教理でせめることがない人であったが、それでいて人を納得させるひとであった。その点では、
   教師とは似つかぬ人物でした」

   この本の中には一木さんばかりでなく、他にも多くの人がそれぞれの思いを書き寄せていて、全体を読み通してみる
   とそれはある土地のある時代を共に生きた人たちの喜びに満ちた追憶の文集として受けとめれるものだ。
  しかし、この本の背景にあるものは今日の私たちの問題である。
  この本は、『西竹小学校開校50周年記念誌』(2006年)に掲載された、第10回生の佐伯雅視さんの「松本先生のこと」
  という一文に触発されて松本さんが筆を起こしたものであるが、確かに、それが始まりだった。それまで松本さんは「生活
  図画事件」については黙して語らなかったという。過去に触れることを、心理的に拒否していたからであるともいう。
  昭和11年、旭川師範学校入学、美術部に入部し熊田教諭の指導を受ける。この出合いが運命的であった、と私には思
  える。熊田満佐吾先生について松本さんは次のように書く。


  「美術の指導は熊田先生だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学)を出て旭川師範学校に赴任してきた若い先生で、
  美術の時間には美術の指導だけでなく良書の紹介や演劇、映画の話、さらにレコードをかけて音楽について解説してくだ
  さった。このように芸術全般を通して、より豊かな人間性を養い、より豊かな生き方を教えるという指導であった。いまの私
  は、多感な若き日に受けた先生の影響を抜きにしては考えられない」


  そして、熊田先生と教え子たちが描いた絵が後日、問題となった。
 熊田先生の薫陶のもとリアリズムを標榜した彼らの描いた絵が「国体を変革する共産主義革命運動に結びつくものである」
 として治安維持法違反に問われたのである。
 先ず、昭和16年熊田先生が「生活綴方事件」にかかわって治安維持法違反で検挙された。その年の9月20日学内で卒業
 延期の処分を受けていた留年組全員が特高警察により逮捕された。この時、松本さんは21歳であった。
 同罪逮捕は菱谷良一、、米沢仁朗、小松厚、佐藤滝次、この日以降1年3ヶ月の長期に渡って拘留された。
 これが「生活図画教育関係治安維持法違反事件」である

 尚、荒川版画美術館の館長である佐伯雅視さんは松本さんの教え子の一人である。
 松本さんの盟友菱谷良一さん(旭川在住)については「東川九条の会」さんのホームページを見られたし。
 著書に『生活図画事件ー獄中記ー』あり。
 最後に表紙に刷られてあるキャプションを書き写す


     「多くの犠牲者の上に築かれた平和憲法
      今それが逆行する動きはないか。
     この記録は過去の歴史から何を学び
      どう考えるべきかを問いかけている」

  


   生活図画教育や生活綴方教育などのオリジナルで先導的な試みが、思想や実践を一色に染めんとするファシズムの
  統制下で実践された。時局を承知の上で実践した者もいたであろうが、大多数の者はひたすら子供の成長と幸せを願
  って、真摯に純粋に取り組んでいた。
  その結果が当局がいう異端者へのみせしめとして、共産主義の取り締まりに名を借りた国家権力のスケープゴートにさ
  れ、ヒエラルキー組織に生きる官憲たちの功名心争いの犠牲(冤罪)になったものと思われる。
  生活綴方教育は三浦綾子の『銃口』でより一層周知されたが、未だ周知されていない生活図画教育と、目的や運命を共
  にした同じ系譜にあることを認識し、両事件をこれからの教訓として永遠に銘記していかなければならない。

                             「生活図画事件に学ぶ」吉本 豊
                                北海道学芸大学旭川分校  昭和34年卒業

 


         
        「国は謝罪と賠償を」
 
   治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は13日、全国から153人の同盟員らが国会に集まり、国による治安維持法
  被害者へ謝罪と賠償などを求めた請願署名の紹介議員になるよう500人を超える議員に要請しました。
  柳河瀬精会長は要請に先立ち「世界では戦後補償問題は進展しており、日本でも変化は起きている。
  私たちの要求は実現できる」とのべました。  
                                   
                                      5月13日『新聞・赤旗」


 




     

      2012年1月   「20」




         「ゲルニカ」
      
  
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881・10・25-1973・4・8)
   
 1937年4月26日、バスク地方のゲルニカがドイツの航空部隊コンドル軍団によって爆撃された。
 その同じ年、アジアでは大日本帝国海軍航空部隊による南京爆撃が行われ、そして重慶爆撃へと続いた。

           
                     


  スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は
 反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなど
 と誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の
 中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より)



  宮下誠さんの『ゲルニカ - ピカソが描いた不安と予感』(光文社新書)の第二章「アトリエの場所」を読む。

   『ゲルニカが描かれたこのアトリエは、映画『天井桟敷の人々』のバチスト役で知られるフランス演劇界の大俳優
  ジャン・ルイ・バロー(1910-94)が稽古場として使い、同じくフランスの作家、ジョルジュ・バタイユ(1897-19
  62)が、当時ヨーロッパに蔓延するファシズム、スターリニズムなどの全体主義の非人間性に対抗するために組織
  した『コントル・アタック(反撃)』の集会場として使っていたところでもあった。
   また、この通りはかつてバルザックが狂気の画家の物語『知られざる傑作』をものにし、当の画家フレンホーフェル
  の仕事場として想定された場所でもあった。 

   
ほんとうは正月だからもっと明るい絵をとも考えたのだが、しかしこれから始まる一年をどう生きるかと思った時、
  やはりピカソのこの一枚の絵しかなかった。
  また、ピカソならば他にもっと好きな絵があるのだけれども軍備拡張と国際貢献に夢中な今の民主党政権を見ている
  と、私の正月を飾る絵はこの地獄絵図以外にはないようだ。
  ゲルニカは過去にあった悲惨ではない。その後も何度もくり返されているし、それどころか今も止めようとはしていない。
  ヒロシマでナガサキで、朝鮮半島で、ベトナムで、イラクで、アフガニスタンで。
  私の立場、それは憲法九条を守るということである。
 


  
    
 2011年12月    「19」

      雪中の狩人


    いつの間にやら12月になった。今年も残すところあとわずか。
   いろいろなことがあった。すべては想定外だと言う人もいるが、すべては歴史的必然であり、その多くは人災であっ
   たし、また犯罪でもあった。
   私は、この事実から出発しようと思う。いや、この地点以外に出発点などあり得ようか。
   私もまた一人の狩人として曇り空の下の雪の道を歩こう。獣道を見つけるのだ。月明かりではなく折れた枝を頼り
   に道を見つけるのだ。
    「隠喩(ギリシャ語のメタフォワ・転移)とは、二つの対象を比較対照させる所以となるある共通の性格を籍りて、
     精神が、一方の対象の名辞を他方に適用させる言語上の綾である」とミシル・レリスがどこかで言っていた。
   それは、この場合、一枚の絵を鑑賞するということではなく、その絵の中に入って、その生活を生きるということで
     ある。といっても、この老骨が鉄砲を持ってこれから森へ入ろうというのではないし、ましてや野の兎や森の熊が獲
     物であるわけもない。ここから先は老人と海ならぬ老人と森のお話であろう。
   2011年12月、雪の夜。「憲法九条」について考える。
 



    
        ピーテル・ブリューゲル(1525~1569)

                


     「酔流亭日常」さんのHPから



      野間宏『暗い絵』再読

  野間宏の短編小説『暗い絵』を、必要があって久しぶりに手にとってみた。
 この本を初めて読んだのは高校二年か三年のときだ。高三の夏休みに同じ著者の長編『真空地帯』を読んだこと
  ははっきり記憶にあるから、おそらくその前だろう。
 1930年代後半の京都。特高警察の監視の目が光る下での学生たち。その重苦しいような雰囲気だけは伝わって
  きたけれど、当時の酔流亭にはこの小説の持つ意味などまるでわからなかった。しかし、冬に向かう京都の、夜の
  町並みみたいなものは、なんとなくイメージできた。高二の秋に修学旅行で京都を訪ねていたので。

  題名の『暗い絵』とは、ブリューゲルの絵のことである。
 「草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪嵐が荒涼として吹きすぎる。はるか高い丘のあたりは雪にかくれた黒い日
  に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗形の穴がぽつりぽつり開いている。・・・」
 まだずっと続くのだが、小説の冒頭に配置された、ブリューゲルの絵についての野間のこの描写は有名である。
  酔流亭が『暗い絵』をまた読もうと思ったのも、この叙述にじかにあたってみたかったからだ。よく言われるように、
 天皇制ファシズムの下での若き左翼インテリゲンチャの苦闘が、その描写にはかさねあわされているのだろう。

  時代は、大陸での日本と中国の衝突が全面化へと向かっていたのである。小説の主人公・深見進介の友人たち
  は、この日中の衝突を「日本の支配階級の最後的な危機」と捉え、「プロレタリア革命への転化の傾向を持つブルジ
  ョア民主主義革命」の到来が二年以内に来ると考えている。そして、その実現のために全てを捧げねばならないと
  決意している。深見は、そんな彼らに敬意と親愛の情を持つけれど、その活動に全面的にはついていけぬものを感
  じているのである。ついていけぬのを、深見は「エゴイズムに基づく自己保存と我執」によると考えている。しかし彼は
 その「我執」を捨てることはできないのである。

  問題は、この「自己保存」と「我執」をどう考えるかだ。それは否定されるべきエゴイズムであるだけだろうか。
 深見の友人、永杉英作や木山省吾たちの「二年以内に革命情勢が到来する」という情勢認識には、やはり誤りがあ
  ったのではないか。その主観主義的分析からは、実践における決意主義・決断主義が生み出される。そして彼らは
  投獄と獄死への道をすすんだ。「そう、彼は決行するだろう。そして直ぐに逮捕されるだろう。ただ旗を掲げ、旗の位置
  を示すだけで。そう、それは決して成功しやしない」(第五章)。

  何が言いたいのかというと、「自己保存と我執」には、運動が陥りがちな観念的ラジカリズムをリアリズムの線に引き
  戻す積極的な役割もあるのではないか、ということだ。
 それは、運動参加者がよく思い込んでいるような、闘いの持つ厳しさから「逃げる」ことを結果するばかりではあるまい。
 重要なのは、小説の終盤、深見進介と木山省吾とが京都の夜道を歩きながら交わす会話である。木山は自分たちの
  行動を「仕方のない正しさ」だと言い、しかし、この道を行く以外にないという決意を深見に打ち明ける。木山と別れたあ
  と、深見はこう独りごちる。
 「やはり、仕方のない正しさではない。仕方のない正しさをもう一度真直ぐに、しやんと直さなければならない。それが俺
  の役割だ。そしてこれは誰かがやらなくてはならないのだ」。

  『暗い絵』の登場人物にはモデルがいる。そして実在した彼らは、小説の永杉英作や羽山純一や木山省吾が辿ったよ
  うに 投獄され獄死する。深見進介が分身であろう作者の野間宏は、彼らに最大の尊敬を捧げ、その運命に慟哭しつつ、
 なお運動の持っていた歪みをも見すえようとしているように思われる。

  ※いまグーグルで『暗い絵』を検索したところ、このサイトでの故・久野収の発言を知り、共感した。
 『市民権思想の現代的意義ー国家・民族・党派を超えるものー
 

  



            2011年11月        「18」 

        
 雅びな宴  フェート・ギャラント

  
    ジャン= アントワーヌ・ヴァトー(1684・10・10~1721・7・18)



       
   
ピエロ(ジル)

 
 
   単純な構造と複雑な装飾
 
  
窪田 般彌(くぼた はんや)さんの『ロココと世紀末』によれば、

  
「ロココという言葉はフランス語のロカイユからでてきたものであるという。
 ロカイユとは小石の集まりを意味するが、ルイ十五世時代にーーとくにオルレアン公
 フィリップの摂政政治(1715~23)の時代に流行した岩や貝殻をモテーフとする
 装飾様式はロカイユ式と呼ばれた。
 そして美術史においては、1715年頃から70年頃にかけての様式を総称してロココ
 といっている。」

  太陽王ルイ十四世の逝去は1715年であり、ルイ十六世の即位は1774年である
 から、ロココの繁栄は民衆に愛された美貌の王十五世の時代ということになる。
  アントワーヌ・ヴァトーが『シテール島への船出』を発表してアカデミーに迎えられた
 のは1717年であり、ヴァトーに傾倒し、ポンパドール婦人の庇護を受けた宮廷画
 家フランソワ・ブーシュが死んだのは1770年である。
 この二つの年代はロココの誕生と終焉を象徴する記念すべきものであろう。

  
  窪田さんは、カザノヴァの回想録を翻訳をしたフランス文学者である。1926年生ま
 れで、2003年に亡くなっている。
 この人には、カザノヴァについての評伝『孤独な色事師』という一冊があって、これが
 また素晴らしい本なのだ。
 そこには次のようなことが書かれてある。

 
外交官タレイランの「1789年の大革命前に生きた者でなければ、生きることの楽しさ
 を知っていない」という言葉は、魅力ある十八世紀の証言にほかならない。
 


   私がヴァトーの名前を知ったのは林達夫の本を読んでからのことである。
 そこで学んだことや感じたことは、その本が今は手許にないので正確のことは思い出せないが、たとえ誤読であったにせよ、その多
 くはモーツルトという奇跡を理解するうえでの思いもよらぬ幸運と言うべきものだったと記憶する。

  ヴァトーであれば、第一に取り上げるべきは『シテール島への船出』、もしくは『田園の恋人たち(羊飼いたち)』なのかもしれないが、
 こうした作品は十八世紀という時代の表面であって、コインの裏表ではないが、その裏側を見なければ全体を観たことにはならない
 だろう。またどちらが表でどちらが裏なのかは観る者の立場や角度が変われば、おのずと変わるのも自明のことだ。
 たとえばこのジルという男の表情だ。これは生身の人間の顔というにはあまりにも仮面的ではないか。笑っているようでもあり、泣い
 ているようでもあり、どうも判然としない。これは世間に対する軽蔑を隠し持った顔なのか、それとも恥ずかしさに必死で耐えている顔
 なのか、あるいはその二つともが真実の聖性を表しているのか。

 いずれにしても、この存在は祝祭的空間にはなくてはならぬ晒し者である。それは、十字架に架けられた者という意味だ。
 
 



 
             
       2011年10月    「17」

     洛中洛外図  
         狩野永徳(1543・2・16ー1590・10・1



   花田清輝の『日本のルネッサンス人』(朝日新聞社・1974年発行)の第一章は「眼下の眺め」という題を持ち、
  それは室町末期から安土桃山時代にかけて活躍した画家・狩野永徳の技法の解明を話の縦筋として、その
  芸術家精神の運動の意味を横に広げて探るという形式をとっている。
  この本の最終章は「金いろの雲」といい、やはり狩野永徳について語っている。

  
第一章の結語を先に書いておく。

    
近代における連帯とは、主体性のある個人の生誕を待って、はじめて成立するものではなかろうか。

   そして、最終章にはこんなことが書かれている。

    
集団は個人を圧迫するでもあろう。しかし、集団が、集団内部の矛盾を、一つ一つ解決していく過程において、
   はじめて個人の主体性は確立されていくのではないだろうか。いかにも個人は、集団のなかにあって単純化さ
   れるでもあろう。だが、その単純化のなかに無限のゆたかさがあるのは、個人が、個人として切り離されている
   ばあいには、ほとんど気づかないーーーー気づくことにさえためらっている、みずからの正体が、集中的に表現
   されているからだ。
   永徳の『洛中洛外図』は、集団のなかにあって揉んで揉みぬかれたかれが、人間というものを、マッスとしてとら
   えるするどいセンスの持ち主に生長していったことを物語っている。

    
この絵の依頼主の目論見がなんであれ、それはおそらく京都の支配者(天下人)としての権力誇示であろうが、
   画家が描いたものは復興の風景ではなく、名もなき生活者たちの不屈の息吹であろう。花田は、この絵をその
   ようなものとして理解し、そして、そこに己の現在、すなわち戦後の混沌を坂口安吾とはまた違った意味で肯定し
   ていたのだろう。


    
画家の視線が、もっぱら京都の市民たちのさまざまな生態にそそがれているかのような印象をうけるのは、すで
   にそのころから日本のルネッサンスははじまっていたという先入観に、こちらが支配されているためであろうか。
   そこには、まるでオモチャ箱をひっくり返しでもしたかのように、商人や農民や工人はむろんのこと、遊女や河原者
   や乞食や猿廻しのような、それまで人生の裏街道を、おめず臆せずあるき続けてきたような連中までが、あますと
   ころなく、びっしりと描きこまれているのだ。
     (中略)
   だが、あえて、漢画流の遠近法にこだわらず、ロング・ショットと共に、クローズ・アップを多用したところに、あらゆ
   る洛中洛外図の独創性があるのではなかろうか。


   
では、なぜこうした技法が発明されたのかということだが、永徳が市井雑踏の巷に発見したものが近代的な意味で
   の「市民」の誕生にほかならないということではないだろうか。ここで重要なことは、かれらが国民でもなく常民でも
   なく庶民でもなく大衆でもなく、生きることの権利に目覚めた「市民」であるということだ。そして、画家は時の権力者
   に奉仕する職人(アルチザン)から一個の独立した芸術家(アルチスト)になった。
   この変貌に花田はルネッサンス人を認めたのであろう。このあたりの消息についてはこの本の第二章「本阿弥系図」
   のなかで異風者・本阿弥光悦を語ってより鮮明に打ち出されている。

    
京都が、古代的な政治都市から中世的な商業都市へ変わっていく過程において、風刺好きのくせに、しっかりした
   ところのなかった「京童(きょうわらべ)」は、いつのまにか、筋金入りのたくましい「町衆(まちしゅう)」に成長したが、
   わたしには、光悦が、そんな転形期を身をもって生きた、代表的な日本のルネッサンス人だったような気がしてならな
   いのだ。

  
 花田清輝は言う。

  「おもうに、草創期の京都の町衆は、江戸時代の町人などよりも、はるかに戦闘的だったのではなかろうか。」と。
 


   
       

   上杉本 洛中洛外図屏風 右隻/米沢市上杉博物館所蔵
   
 

       

   上杉本 洛中洛外図屏風 左隻/米沢市上杉博物館所蔵


 
   
米沢藩主上杉家に伝わったもので、洛中洛外図の中でも傑作とされ、国宝に指定されている。狩野永徳が描き、
    1574年(天正2年)に織田信長上杉謙信に贈ったとされる(『上杉年譜』)。描かれた景観から制作年代につい
て様々な議論が行われてきたが、今谷明は景観年代を1547年と限定し、永徳筆であることを否定した(『京都・
一五四七年』)。今谷説は美術史家にも衝撃を与えたが、その後、瀬田勝哉は景観年代を下げ、注文主を
足利義輝と推定。さらに黒田日出男は景観年代を1561年(永禄4年)以後としたうえで、作画完了は1565年
(永禄8年)とする史料を示した(『謎解き洛中洛外図』)。従来は、信長が永徳に命じて描かせたものと考えら
れていたが、現在は屏風の注文主を足利義輝とし、義輝死後の1565年(永禄8年)9月に完成、その後信長が
入手し、1574年に上杉謙信に贈ったものとする解釈が有力である。画面の景観年代は必ずしも制作年代に
直結せず、粉本をもとに描いた可能性があること、画面に捺される「州信」の朱文円廓内壺形印は、永徳所
用印のうちもっとも信頼度の高いものであること等により、美術史家たちは本作を永徳の真筆とみなしている。
                                     ウキペディア から 


 
         
 2011年9月    「16」

    “If I can(もし私にできるなら)”

    リアム・モリス(William Morris、1834・3・24~1896・10・3)



    モリスという森を理解しようとするならば、いくつかの道がある。しかし、その中のどの道を選んでも森の中心に
   辿りつくことは出来ない。従って、その森の広さも知ることが出来ない。
   そういう森の中では探検者は自己の現在地を確認することは不可能であるし、脱出への方向感覚も無意味である。
   いや、第一に脱出というのは日常性への回帰のことであるから幸せな探検者がそのようなことを考えるかという疑
   問もある。と言うのは、迷宮での体験に苦痛や恐怖や不安が付きまとうとは必ずしも言い切れないからだ。
   謎を解く者の得る報酬は「歓喜」である。
   最初の発見は新たな謎の入り口に過ぎない。この繰り返しである。そこでは「時間」は忘れられる。森の中で起き
   る出来事はすべて時間の概念でもって説明されるこを拒絶する。
   「世界のかなたの森」、そこにあるのは「永遠の今」である。

    「ロマンスという言葉が意味しているのは、真に歴史を把握する能力、つまり、過去を現在の一部と化す力のこと
   だ」とモリスは言った。
 


    労働の報酬は生きることそのものです。つまり創造という報酬がです。

   イギリス政府が「北米土人」の扱いにくい種族への選りすぐった贈物として、わざわざ天然痘の黴菌を染みこませた
  毛布を贈った時代から、アフリカがスタンリーという男になやまされた時代までですが、もしあなたが19世紀について
  なにか知っていらしゃるなら、祖父が当時純粋な芸術家で、天才で、革命家でもあったとお話ししたら、かれがなにを
  苦しんだかわかっていただけるでしょう。
  
   まったくそのとおり! わたくしが見てきたようなことを、もしほかの人々が見ることができたなら、そのときこそ、
  たんなる夢というよりはむしろ一つのヴィジョンと呼ぶことができるであろう。

                             『ユートピアだより』 中央公論社
 
 
    
               

  『王妃グウィネヴィア』ウィリアム・モリス:
          WILLIAM MORRIS

   
 


  

        
 2011年8月    「15」 



 

   黄色いキリスト


   ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン

    1848・6・7~1903・5・8

  2月革命の年にパリに生まれ、父のペルーへの亡命に伴い幼年期をリマで過ごし、帰国後は
 神学校へ通い、17歳で航海士となり、その後株式仲買人として家庭を持ち、日曜画家として暮
 らす。
 しかし、それで終わらなかった。
 いろいろなことがあって、最後は南の島マルキーズで孤独のうちに死んだ。

 
 1888年  ゴッホ発狂
 1890年  ゴッホ自殺
        ラヴァル自殺
 1891年  13歳のテフラを妻とする
 1898年  マラルメ永眠





           



 われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか
            
            


  ゴーギャンは絵描きが本職であるが、文章家でもあって、それは一個人の身辺雑記の次元に留まるものではな
 くゴッホの弟テオ宛の書簡とともに立派な文学として独立した作品である。
 この人の遺した『私記』(美術出版社・前川堅市訳))は優れた芸術論である。久しぶりにそれを開いてみる。

  
 あるがままををとりあげられた現実は、ことさら書かないですませても十分なのではないか?
  しかも人は変わるのだ。

  
 真面目な読者はいなくとも、書物の作者はもとより真面目でなければならない。

   人はしばしば自分よりつまらぬ奴をおそれるべきだといわねばならぬ。控え室では、従者は大臣より先に歩く。

  他人の作品を模写するのは、看板職人のする仕事である。


  そして私の夢の中では、白い翼の天使が、微笑みながら私の方にやって来る。その後には、一人の老人が砂時計
  を手にしている。

  ある人々は意志し、他の人々は戦わずして諦める。

 
 私が8月の絵にポール・ゴーギャンを選んだ理由は、此処に立ち止まってもう一度考え直さなければならないと思
 ったからだ。何を?
  

  
 われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか


  
                
2011年7月     「14」

    老いて目が霞んで小さな活字を追えなくなったとき、それでも目はまだ色彩だけは感受できる。
   眠れない長い夜には、そういう書物(図録)が精神の慰めとなる。身体の諸器官の機能が低下してあらゆる欲望が
     消えてゆくとしても、何かを観たいという欲望は最後まで残る。
   「美」に係わる欲望は観ることから始まる。そしてその欲望は見納めるで終わる。
   それが女性の裸体であるか、庭の華であるか、あるいは名月であるか、もしくは鳥類の姿であるかは人それぞれで
     あるが、対象がなんであれ我々がそこに観ているものはかつて我々のものであったところの「時間」である。

     
                                              風狂散人

 

        『アメリカの鳥』 

ジョン・ジェームズ・オーデュボン (1785・4・26~1851・1・27)

    執念の図録 

   





 
      


    書物の歴史の中で、J・J・オーデュボンの『アメリカの鳥』は、19世紀前半の出版ながら、特別の位置を占
   めている。書物と言ってもこれは図録なのだが、著者の全身全霊がのりうっている点で、まことにユニークな
   存在だからだ。
   オーデュボンは、フランスの船員と、サント・ドミンゴのクリオール人の娘との間に生まれた私生児であったが、
   父は彼を認知して養子とし、本国へつれかえり、ジャック・ルイ・ダヴィードの弟子にして絵をならわせた。
   しかし博物学への天性の興味は、ついに彼を比類のない鳥類画家とした。
   彼は1804年に、当時まだ鳥の楽園であったアメリカへ舞いもどり、イギリス移住民の娘である愛妻ルーシ
    
と共にアメリカ全土を放浪し、とりつかれたように片っ端から鳥を写生してまわる。
   画稿はおびただしい数量にのぼった。

                                   寿岳文章 著
                                      『図説  本の歴史』

 



                
 2011年6月   「13」 

 
             日常の中の聖性 

  いつかはプルーストを読むであろうあなたへ贈る

      ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer, 1632-1675)
  
       
 17世紀  オランダの画家

         『窓辺で手紙を読む女』


   目まいがひどくなってゆく、彼は子供が黄色い蝶をつかまえようとするときのように、みごとな小さな壁面に視線
  をしばりつけていた。「こんなふうにおれは書くべきだった」と彼はいうのだった。
  「おれの晩年の書物はどれもこれもうるおいがなさすぎる、いくつもの色層をかさね、おれの文章をそれ白身のな
  かでりっぱなものにすべきだった、この黄色い小さな壁面のように。」
  そのあいだも、目まいのひどさは彼から去りはしなかった。彼の目に、天上の秤が、その一方の皿に彼白身の生
  命をのせてあらわれていた、もう一方の皿には黄色でじつにうまく描かれた小さな壁面が置かれていた。
  彼は後者のために無謀にも前者を犠牲にしたことを感じていた。「おれは、しかし」と彼は白分にいった、「この展
  覧会の三面記事になって夕刊紙に載せられたくないな。」
  彼は心にくりかえすのであった、「廂のある黄色い小さな壁面、黄色い小さな壁面。」くりかえしているうちに、円形
  に腰かけられるソファの上にたおれかかった、すると突然彼は自分の生命が危険に瀕しているとは考えなくなった
  、そして楽観的な気持にもどって、自分にいった、「ただの消化不良を起こしただけだ、あのじゃがいもがよく煮え
  ていなかったためだ、なんでもないんだ。」第二の発作が彼をうちたおした、彼はソファからゆかにころがり落ちた
  、そこへ見物人も監視人もみんな駆けつけた。彼は死んでいた。
  永久に死んでしまったのか?誰がそうと言いえよう?なるほど交霊術の実験も、宗教の教理も、魂が存続するとい
  う証拠をもたらしはしない。人が言いうることは、この人生では、われわれが前世で負わされた義務の重荷をその
  まま背負って生まれてきたかのように、すべてがはこばれる、ということだ、この地上でのわれわれの生存の条
  件のなかには、善をなせ、こまやかな心遣をせよといった義務、いや礼儀正しくあれといった義務さえも、それを
  人に感じさせるような理由は何一つないのだし、また神を信じない芸術家にとっては、永久に未知のままの一芸
  術家、わずかにフェルメールという名で判別されるにすぎない芸術家が、あのように多くの技術と洗練とをかさね
  て描いた黄色い壁面のように、一つの断片を二十度もくりかえして描く義務を感じる理由は何一つないのであっ
  て、たとえその断片がやがて人の賞讃をかきたてることになるとしても、蛆に食われる自分の肉体にとってはどう
  でもいいことであろう。


                             
 「ベルゴットの死」    マルセル・プルースト
 

  


         

     

       『デルフト眺望』                 『真珠の耳飾の少女』

   



     
 



      2011年5月   「12」

     香月 泰男   生誕100年
        
          「朕」         
   会期 2011年3月2日(水)~5月8日(日)
時間 9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日 月曜日(ただし3月21日は開館)、3月22日休館
※4月26日から会期末まで無休
会場 山口県立美術館 山口市亀山町3-1
観覧料 一般600円(500円)、シニア500円
(400円)、学生500円(400円)
※シニアは70歳以上の方、( )内は前売
りおよび20名以上の団体料金
※18歳以下、および高等学校、中等教育
学校、特別支援学校に在籍の方は無料
※ギャラリーナカノで前売券発売中
主催 香月泰男展実行委員会(山口県立
美術館、朝日新聞社、yab山口朝日放送)
協力 香月家、香月泰男美術館
協賛  JAグループ山口
特別協力 エフエム山口
特別協賛 ミサワホーム中国山口支店





 
   


    香月泰男(1911—74)

   1911年10月24日、旧大津郡三隅村(現在の長門市三隅)で、代々漢方医を業とする香月家に生まれる。
  幼いころに両親と離別し、厳格な祖父母に育てられた一人子の泰男は、無口でおとなしく、一人でいることを好む
  内向的な少年であった。
  1931年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学。1936年に同校を卒業後、北海道ついで下関
  で教鞭をとるかたわら制作に励む。1938年、藤家婦美子と結婚。翌年には長男が誕生し、また第三回文部省美
  術展覧会で特選をとるなど、公私ともに充実していた矢先、召集令状を受ける。
  1943年、旧満州の部隊に配属され、大陸で終戦を迎えた香月は、そのままシベリアに輸送、旧ソ連の捕虜収容
  所で強制労働を課せられた。
  1947年5月帰国。以降、1974年にこの世を去るまで、戦争とシベリア抑留の体験を描き続けた。

      シベリア抑留」とは

   第二次世界大戦後、旧ソ連は資源を開発するために、日本をはじめとする近隣諸国の捕虜をシベリアに送り、
  強制労働に従事させた。極寒のシベリアで満足な食事も与えられず、苛烈な労働を課されたことによって、数多
  くの抑留者の命が失われた。香月が最初に入った収容所でも、250名の同胞のうち、およそ30名、実に1割以上
  が栄養失調と過労によって命を落としている。日本人全体で60万人とも70万人ともいわれるシベリア抑留者のうち、
  どれだけの人たちが犠牲となったのか、正確な数字はわかっていない。

    1947年5月21日、シベリアで幾度となく夢に見た日本へ、香月はついに帰ってきます。
   妻に見送られて、下関から戦場へ旅立ったあの日から、すでに4年あまりの歳月が過ぎていました。
   戦争、そして過酷な抑留生活を耐え忍んで、ようやくとり戻した家族との穏やかな生活。
   しかし、肉体がシベリアから解放されたそのときから、27年間の「追憶のシベリア」がはじまったのです。

  「帰国してからしばらくの間、私は意識的にかなり色を使っていた。暗い時の終わりを、色を
  使うことによって自分にもいいきかせていたのかもしれない。」

 
 山口県立美術館監修『香月泰男シベリア画文集』 中国新聞社 2004年
      香月婦美子監修『香月泰男 一瞬一生の画業』 小学館 2004年



  戦争とシベリア抑留によって奪われた時間をとり戻すかのように、帰国直後の香月は、戦前のクールで詩的なスタイル
 に暖かみのある色彩で「シベリア」を描きました。

  香月泰男は1974年に62歳で亡くなった洋画家である。その没後30年に合わせるかのように各地で絵画展が催され、
 画文集があらたに刊行された。画文集でいうと、ひとつは『香月泰男シベリア画文集』であり、他のひとつは『香月泰男 
 一瞬一生の画業』である。 2冊とも画家の魂の重みが、見る者にずっしりと伝わってくる。
 香月泰男は1943年4月から満州のハイラルで2年間従軍した。そして、45年にソ連の参戦でハイラルから奉天に撤退
 したところで敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となりシベリアのセーヤ収容所に送られる。翌46年にはチェルノゴルスク収容所
 に移されたが、約2年間にわたってシベリアで苛酷な強制労働の生活を送った。47年にようやく復員したときは36歳であ
 った。
 この抑留体験を描いた香月の作品は全部で57点あり、いわゆる「シベリヤ・シリーズ」と呼ばれている。それらは一言で
 いうと暗鬱な黒の世界である。「黒い太陽」と題された作品があるが、北緯50度の地点に上る太陽は「希望の象徴である
 ことをやめたかのように、その輝きを失って、中天に暗黒に見えることもあった」と『シベリア画文集』の自筆解説で香月
 は述べている。また、『一瞬一生の画業』には、「使われた素材・手法もまた、シベリアの記憶をよみがえらせる。
 方解末を混ぜた壁のようなマチエールは、収容所で壁の漆喰塗りをやらされた体験、木炭の微粉末を用いた黒い色彩
 は、煤を油で練って即席の黒い絵具をつくった体験に根ざしている」という解説がある。マイナス35度の極寒の環境で強
 いられる苛酷な労働、飢餓と疲労の中でみる夢の中にしか存在しない故郷。絶望による精神の暗黒を象徴しているかの
 ようなシリーズの作品を1点ずつ眺めると、一個の人間に体験がもたらす呪縛のような重みというものをあらためて痛覚
 せずにはいられない。
 戦後30年の間、香月泰男の中で戦争は決して終りを告げなかった。
 シベリアの凍った世界にいるときは夢に日本を恋い、帰国したら今度は夢の中にシベリアがよみがえるという日々が続
 いたのだ。この逆説の悲劇が「朕」「涅槃」「日本海」「復員」など数々の秀作として結実し、見る者に圧倒的なリアリティで
 迫ってくる。その衝迫は、スイッチを切り換えれば、あたかも今現在もどこかの空間で続いているかのような感覚をもたら
 す。
 『香月泰男シベリア画文集』には、シリーズ作品57点すべてが収録され、1点ずつの詳細な解説と自筆解説文が付され
 ている。 『一瞬一生の画業』も、香月泰男の「シベリヤ・シリーズ」の作品が基調になっていることに違いはないが、香月
 の全業績から作品を網羅、解説した画文集である。東京美術学校在学中に描いて国画展に入選した「雪降りの山陰風
 景」から、花や虫など命あるものに寄せた画家のあたたかい眼差しが感じられる晩年の作品まで幅広く収録されている。
 そこに見られる明るい色調に接すると、シベリア体験がこの画家からどれほど光を奪ってしまったかがよく分かる。

 
    ■展覧会概要■

   山口県長門市三隅のアトリエで、戦争とシベリア抑留の体験を描きつづけた画家、香月泰男(1911-74年)。
  1947年にシベリアの収容所から帰国した香月は、その半年後に描かれた《雨 <牛>》から、絶筆となった1974年
  の《渚 <ナホトカ>》まで、 一つまた一つと「シベリア」の記憶を紡いでいきます。
  四半世紀あまりのあいだに、57点の油絵に結実した「追憶のシベリア」。それらはいつしか「シベリア・シリーズ」
  と呼ばれるようになりま した。
  シベリアから帰国後、香月は愛する家族とともに生まれ故郷の三隅で穏やかな生活を送りました。
  しかし、平穏な暮らしのなかで、過酷な抑留の記憶がふいに目を覚まします。あの寒さ、あの疲労、あの絶望・・・。
  忘れたい、でも忘れられない、忘れてはならない惨めさと労苦の日々は、生涯、香月をとらえて離しませんでした。
  「シベリア・シリーズはこれで終わりにしよう・・・」そう思いつづけながら、最期まで「シベリア」から逃れられなかった
  香月泰男。シベリア・シリーズをとおして、その心の軌跡をたどります。


 
               香月泰男    生誕100年

                                  2011・4・17    しんぶん・赤旗・日曜版


   シベリア抑留体験を題材にした作品で知られる画家・香月泰男(かづき・やすお)。
  その生誕100年を記念した展覧会「香月泰男・追憶のシベリア」が、山口市の山口県立美術
  館で開催されています。   金子 徹記者


 
 「過酷」とは、このようなものかと思わせる絵を描きました。 
   黄土色の大地。重くのしかかるように黒ずんだ空。そして、岩から掘りだしたようにいかつく、悲しげな表情の男たち。
  香月泰男(1911~74年)の仕事を代表する「シベリア・シリーズ」(全57点)は、抑制を利かせたなかに、心を揺さぶ
    るものを秘めた作品群です。
  香月は42年に召集令状を受け、43年に入隊。31歳でした。
   旧満州に派遣され、戦闘を経験することなく終戦を迎えましたが、旧ソ連によりシベリアに抑留されました。
   帰還できたのは47年です。
  「シベリア・シリーズ」は、その体験が主題の作品ですが、劣悪な生活環境や強制労働の現場などを描いたものでは
   ありません。故国に帰りたいという思い。それがなかなか実現しそうにないという絶望感。次々と死んでゆく仲間たち。
  それらを例えば「有刺鉄線」や遠ざかる汽車の「煙」などで象徴的に表わします。
  「黒い太陽」という、ごつごつした絵肌の作品では、重苦しい気配を凝縮した画面の上部に黒くいびつな太陽を描いて
   います。シベリアの太陽が、希望を失った画家には暗黒にみえることもあったという、個人的な体験を物語る絵です。

   「もう何度も、シベリア・シリーズはこれで終りにしようと思った」
 
  画家はこのように述懐しながらも、結局は亡くなる直前まで、四半世紀余りにわたってとりくみました。
 画家の思いは、文章としても残されています。例えば「朕(ちん)」という作品(70年)は。

  「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、
  などの美名をでっちあげて・・・・。
 朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生命を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を
  、描かずにはいられなかった」

  そこには戦争の犠牲者たちの鎮痛な顔が描き連ねられています。
 今回は、50年代後半から本格化する同シリーズ以前の作品も展示。作風の劇的な変化がみてとれます。
 初期の作品は、明るい色調と洗練された構図が特徴的。帰国直後の作品にも色彩の明るさがありますが、59年ごろ
  からは、重厚にして繊細な絵肌を特徴とする「シベリア様式」が定着。以後、同シリーズだけでなく、花や母子像などを
  描く場合も「シベリア様式」となります。
  60年代以降は人気画家となり、花の小品など売れる絵を量産した香月。
 そんななかでも、年に何度かは「私のシベリア」に対峙(たいじ)せざるを得ませんでした。その晩年を知る画家の野美
  山暁治さんは、『「戦争」が生んだ絵、奪った絵』(新潮社)のなかで「死ぬまでシベリアを描きつづけていたというが、描
  きつづけることで、生きていられたのだ」と記しています。
 自分のなかの「シベリア」を、見つめ続けた画家の作品がいま、新たな光を放っています。

 



      
2011年4月  「11」

             四月は残酷極まる月だ

          『荒地』   T・S・エリオット    西脇 順三郎 訳

   『金枝』
        ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーJoseph Mallord William Turner
          1775~1851
           イギリスのロマン主義の風景画家

        
         この絵はジェームス・フレザー(1854~1941)の『金枝編』に口絵として掲載された。
        


 
   

         第一章   森の王

    一  ディアナとヴィピウス

   誰かターナー描く『金枝』の絵を知らぬ者があろう。この絵はネミの小さな山の湖ー古人の所謂「ディアナの鏡」
  の夢幻的な想像図で、畫面は想像の金色の輝きでもって隈なく覆ひつくされ、ターナーの聖き心はこよなく麗しい
  自然の風景をすら深く染めて、それを神々しい姿と化している。
  アルバの山の緑の窪地にたたへたかの静寂な湖を見た者は、永久にそれを忘れることは出来ない。
  その畔に眠る二つの特色あるイタリアの村も、湖面にまで峻しく降りる雛壇式庭園をもったイタリアの宮殿も、決
  して景色の幽寂と孤独とを防げはしない。
  ディアナは今もなほこの淋しい湖畔をしたひ今尚このあたりの森林に出没するのではあるまいか。
  往昔、この森の景勝地は、不思議な、そして繰返される悲劇の舞台であった。湖の北岸、現在ネミの村が安らか
  に座る切り立ったような絶壁の真下に「ディアナ・ネモレンシス」即ち「森のディアナ」の聖林と聖所とがあった。

                    『金枝編』  
                         フレイザー著  永橋卓介 訳   岩波文庫


       


   経歴・人物

  1775年
ロンドンコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分に
  することができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようである。
  13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学んだ。当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所
  の風景を念入りに再現した「名所絵」のような作品を制作することであった。マートンの元で1年ほど修業したターナーは
  ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し1799年には24歳の若
  さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年に27歳の時には同・正会員となっている。

   初期のターナーはアカデミー受けのする、写実的な風景を描いていた。アカデミー準会員となって以降、約20年間は有
  力なパトロンに恵まれ批評家のジョン・ラスキンからも好意的に評価されるなど画家として順調な歩みを続けた。
  『カレーの桟橋』(1803年)、『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812年)などはこの時期の作品でロマン主義的
  な大気、光、雲の劇的な表現が特色である。

   ターナーにとって転機となったのは1819年、44歳の時のイタリア旅行であった。ルネサンス期以来、長らく西洋美術の
  中心地であったイタリアへ行くことはイギリスの
  ような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、ジョゼフもその例外ではなかった。イタリアの明るい陽光と色彩に
  魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残している。
  イタリア旅行後の作品は画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、そのためにしばしば描かれてい
  る事物の形態はあいまいになりほとんど抽象に近づいている作品もある。

  1842年に制作された『吹雪-港の沖合の蒸気船』では蒸気船はぼんやりとした塊に過ぎず巨大な波、水しぶき、吹雪とい
 った自然の巨大なエネルギーを描き出している。印象派を30年も先取りした先駆的な作品であったが、発表当時は石鹸水
 と水漆喰で描かれたなどと酷評された。この作品を制作するためにジョゼフはマストに4時間も縛りつけられ、嵐を観察した
 という逸話が残っている。
                                  「ウキペディア」 から



  

  「チャイルド・ハロルドの巡礼」1832年 油彩

   あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに
  言うと、野だは「まったくターナーですね。
  どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。

                         『坊ちゃん』   夏目漱石    


     僕がターナーの名前を最初知ったのは漱石のこの小説を読んだ時のことである。
    その時はまだ少年であった。
つまり、漱石を少年文学として読んでいたということである。従って、その読み方は、
    マセガキの誤読、飛ばし読みといったようなものである。
    当然のごとく、ターナーのことは西欧の絵描きさんだとは見当はつけたがそこから先へ進むことはなかった。第一、
    その頃は産業革命や帝国主義やロマン主義といった言葉も知らなかった。
    加えて、漱石のターナー紹介も初心の者にはそれほど親切なものではなかった。

    
しかし、文豪漱石が紹介の労をとっただけにこの国ではターナーは大有名人であるようだが、ただし、その評価と
    いう点になると必ずしも定まっているとはいえないようだ。
    描く題材が神話から戦史または近代と多元性に富むためか、時に通俗的ですらある。
    そして、この人のロマン主義にはそれほど思想性があるわけではない。
    むしろ近代の夜明けを告げる「時代の証言者」としてみるべきではないだろうか。

    

        
 『雨、蒸気、速力、  グレイト・ウエスタン鉄道』 (1844

   

   ターナーの
    自画像 

 

  ターナーは鉄道を主題にした絵を描いた最初の画家といわれる。69歳のとき発表した《雨、蒸気、速度》がそ
 れだ。汽車は雨をものともせず、石炭を赤く燃えたたせて鉄橋をこちらに直進してくる。ロンドンから西へ向かう
 グレイト・ウスタン鉄道上で、描かれた地点もわかっているのだが、特定の場所の記録でなく、「自然に対する
 人間の力の勝利がテーマだったと思われる。

                      『イギリス美術』  高橋裕子 著    岩波新書  555


 


 
      
 2011年3月  「10」

 

     
    私の作品の観念はたえざる生成の状態にある

                                 マルセル・プルースト


    
赤エイ(赤えいと猫と台所用具)

            

 


  
ジャン・シメオン・シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin,

 1699年11月2日 - 1779年12月6日)は、ロココ時代のフランス画家

 18世紀を目前にした1699年パリに生まれ、フランス革命前夜の1779年、同じくパリで没した。
 ロココ美術全盛の18世紀フランスを生き抜いた画家であるが、その作風は甘美で享楽的な
 ロココ様式とは一線を画し、穏やかな画風で中産階級のつつましい生活や静物画を描き続けた。
 シャルダンは、初期の静物画『赤エイのある静物』でアカデミーに認められた。
 軽薄で享楽的なロココ芸術には批判的だった「百科全書派」のディドロでさえ、著書のなかで
 シャルダンを絶賛していた。
  シャルダンの絵画は、その日常的・現実的な題材、静物画にみられる真に迫った写実表現
 などに、17世紀オランダ絵画の影響が顕著に見られる。それとともに、その造形感覚や光と影
 の描写は、同時代の画家のなかでもきわだった近代性を示しており、後の印象派に通じるもの
 がある。
 晩年の1775年の年記のある、パステルで描かれた自画像(ルーヴル美術館蔵)もよく知られて
 いる。日除け帽を被り、丸眼鏡を掛けた老画家の自画像には、絵画一筋に生きてきた画家の
 実直な風貌がよく表されている。
                             ウキペディア  から

 

   保苅瑞穂 の『プルースト・印象と隠喩』(筑摩書房)は文学論としても絵画論としても大変優れたもので、僕は年に
  何回か読み直すことをこの数年間の読書習慣としている。その第四章 物の体験 -「赤えい」について、を開いて
  みる。


    

   
そこでつぎに「赤えい」の転写文を引用する。これはその出来栄えにおいて、「食器棚」のを凌ぎ、すでにプルースト
  の円熟期の文章を思いおこさせる密度をもっている。


    さて今度は台所までおいでなさい。 入口は大小さまざまな器の一族、いっていれば腕のいい忠実な召使いであり、
  働きもので美しい種族であるかれらによってきびしく護られている。食卓のうえには一気に目的にむかうきびきびした
  ナイフが人をおどすようにみえて、いまは害のない懶惰な姿で休んでいる。
  しかしあなたの頭上には、自分が身をくねらせて泳いだ海のようにいまも新鮮な、奇怪な怪物の赤えいが一尾つるさ
  れている。それを見ると、赤えいがその恐ろしい目撃者だった海の凪や時化の不思議な魅力が、美食の欲望とまざり
  あって、なにか動植物園の思い出のようなものが料理屋の味のなかをよぎってゆく。
   赤えいは腹をさかれていて、あなたは赤い血や、青い神経や、白い筋肉で染められた、繊細で、壮大なその建築、
  まるで多彩色の大聖堂の内陣のようなその建築の美しさを楽しむことができる。
  かたわらには死んだ魚が投げ出されたまま、腹を下にし、眼を飛びださせ、硬直した絶望的な曲線を描いて、からだ
  をよじらせている。それから一匹の猫がそのいっそう手がこんだ、いっそう意識的な姿に宿る暗い生命をこの水族館
  に重ねあわせ、かがやく眼を赤えいにそそぎながら、もちあがった牡蠣のうえで、ビロードの足をおずおずしながらも
  いそぎ加減に動かしている。そうやって性格の慎重さ、味覚の欲望、企ての無鉄砲さを一時にみせている。
  眼というものは好んでほかの感覚とともに働き、色彩の助けを借りて、ある過去や未来のすべてより多くのものを再構
  成しようとするものだが、その眼が、いまにも猫の足を濡らしそうな牡蠣のつめたさを早くも感じている。そして、そうした
  もろい真珠母色の貝殻があぶなっかしく積み重ねられているのが、猫の重みで崩れる
  一瞬に、貝が割れる小さな叫びと貝が崩れ落ちる轟きとが早くも耳に聞こえてくる。

   
                    (『サント・ヴーヴ』、375-376ページ)


  保苅瑞穂にはもう一冊『プルースト・夢の方法』(筑摩書房)という本がある。
 二冊あわせて読むことをお薦めする。この二冊はシャルダンもプルーストも知らない人が読んでも滋味豊かな精神の
 食物であると思う。その意味は、読書論として独立しているということだ。

 



     
2011年2月    「9」


        
 「女祭司」

  

   古代の母権制文化圏に属する社会においては、仮面は、女祭司のみの所有であった。
  マスクと女性との関係は、きわめて古いのである。母なる大地の密儀には、ただ仮面をかぶった女祭司のみが、
  罰を受けることなく近づき得たのであって、民俗学の常識によれば、仮面が男たちの手に渡ったのは、ずっと後
  の時代になってからのことなのである。
  レオノール・フィニーという現代の女流画家は、もしかしたら、古代の女祭司の生まれ変わりであるのかもしれない。

                         『幻想の画廊から』
                               澁澤龍彦著   美術出版社

  
         

 
  
             守護者スフィンクス   
   


   
 わたしの物語はわたしがそれを書いていたときのわたしという人間の象徴であり、その物語を書くためには
   わたしがその人物でなければならず、その人物となるためにはわたしがその物語を書かなければならなかった
   、というふうに無限に続いてゆくのを感じた。
   (わたしが彼を信じることをやめるとき、《アヴェロエス》は消散する。)

                                     『アヴェロエスの探求』

                 「不死の人」
               ホルヘ・ルイス・ボルヘス
              土岐恒二 訳   白水社
 


      トリエステ時代

  ブエノスアイレスにてドイツ、スロヴェニア、ヴェネツィアの血をひくトリエステ
 出身の母とスペインとイタリアの血をひくアルゼンチン人の父との間に生まれ
 た。レオノールが1歳の誕生日を迎える前に母は夫のもとを去り、現イタリア
 のトリエステにある実家に娘を連れて帰った。レオノールの父はあらゆる手段
 を講じて彼女を取り戻そうとし、誘拐までも試みた。レオノールを守るため一時
 期一家はフリウーリ地方の小村に避難し、家族全員が変装して身を隠した。
 レオノールは少年に変装させられた。父親と母親の家族の間で幼いレオノー
 ルを巡って裁判による戦いが繰り広げられた。母の実家ブラウン家の長男で
 ある伯父は進歩主義的弁護士であり、作家イタロ・ズヴェーヴォや詩人ウンベ
 ルト・サーバの友人であり、トリエステで『ユリシーズ』執筆中のジェイムズ・ジョ
 イスとも知己であった。当時オーストリア=ハンガリー帝国の港町として繁栄し
 た自由な雰囲気の国際都市トリエステは、むしろ文化的にはドイツ・ロマン派
 の影響の強い中央ヨーロッパ圏に属していた。レオノールは、そうした環境で
 強い自己意識と感受性を持つ早熟な少女に育ち、イタリアの中でもいち早くト
 リエステで紹介されていたフロイトの著作も読んでいたという。幼い時から絵が
 好きでスケッチや落書きに熱中し、アール・ブリュット的な試みも行っているが、
 短期間エドモンド・パッサウロに手ほどきを受けた
 他は専門の美術教育は受けていない。17歳頃から油絵を描き始め、1924年に
 は友人アルトゥーロ・ナタンらとトリエステでグループ展に参加する。
 そこでミラノ在住のある大臣の家族の肖像を描くという初めての注文を受けた。

 


    妖精、ジョイ・ブラウンの肖像 
      1955年

  


 
        2011年1月   「8」
 


      
 浮世の絵、または江戸のビーナス
           
               天明の「粋」を訪ねて

     
     白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき


  鳥居清長(とりい きよなが)、1752生~1815没。
 江戸の浮世絵師、鳥居派四代目当主。
  
  この浮世絵師が観ていた隅田川を蜀山人大田南畝も観ていた。
 時代はあっという間に変わってしまったけれども、その後多くの人がそこにあった空間を「近代」
 に対する批判として懐かしみ、あるいは甦らせようとした。
 例えば、幸田露伴であり、永井荷風であり、石川淳である。


   
宿屋飯盛は早く四方赤良系の狂歌師として天明狂歌の運動に一役買っている。
  この天明の狂歌師といふものがその発生において實在から籍を抜いて飛び出して来たような
  假託の人格であった。たれがたれとも身許の知れぬ狂名の中に四民
の別はありえない。すな
  わち、人別からはづれた無宿者どうしが寄りあつまつてばたばたうごき出すところは巷のまん
  なかよりほかにない。狂歌という形式のもとに、この運動が培養し伝播したものは文学の毒で
  ある。
  天明狂歌の精神上の効果はここにあつた。


                 
 『江戸文学嘗記』 石川 淳
                      昭和55年   新潮社
 


    

 

 色競艶婦姿   湯殿
 

   美南見十景
   東海の池見草



   当世遊里美人合
    橘中妓

 

   風俗東之錦
    湯上り


 
    先ず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に對する「媚態」である。異性との関係が「いき」
   の原本的存在を形成してゐることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。
   「いきな話」といえば異性との交渉に関する話を意味している。

    「いき」の第二の徴表は「意気」即ち「意気地」である。
   意識現象としての存在様態である「いき」のうちには江戸文化の道徳的理想があざやかに反映されている。
   江戸子の気概が契機として含まれている。
   野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸子は誇りとした。
   「江戸の花」には命を惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋、法被一枚の「男伊達」を尚んだ。
   「いき」には「江戸の意地っ張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。

    「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に對する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。
   「いき」は垢抜がしてゐなくてはならぬ。

    一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を超えると下品になるという見方が
   ある。先ず、全身に関しては、姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である。鳥居清長の繒には男姿、女姿、
   立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味に於いて、、またあらゆるニュアンスに於いて、この表情
   が驚くべき感受性をもって捉えてある。

                        「いき」の構造  九鬼周造 著
                                 1930年   岩波書店


 
 
 


     
鳥居 清長

     役者絵の名門・鳥居派の四代目として、役者絵と美人画の双方で時代をリー
    ドしたのが清長です。
    若い頃は主に役者絵を描きましたが、天明期に入り、八頭身の健康的な美人を
    描いて一世を風靡しました。
    二枚続き、三枚続きのワイドスクリーンに、長身の美人の群像を巧妙に配置した
    作品が特徴で、多くの傑作を残しています。
    また、歌舞伎の舞台上の光景を描いた「出語り図」を多く手がけたことでも 知ら
    れます。
    天明6年頃に鳥居派四代目を襲名した後は、もっぱら芝居の看板絵などを制作し
    たといわれています。
    明治のお雇い外国人フェノロサが、浮世絵師の最高峰に位置づけた絵師でもあ
    ります。


   
大田南畝
   名前
  南畝は号。名は覃(ふかし)。字は子耜(しし)。通称は直次郎。名は覃(ふかし)。
  字は子耜(しし)。通称は直次郎。
  世間的には別号の蜀山人、四方赤良(よものあから)で知られる。

   職業 

  狂歌師、戯作者、随筆家、幕臣遊民

 久かたの光りのどけき春の日に紀の友則がひるね一時

 

 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
                          紀友則    
     

 


 
      2010年12月  「7」

           
 祈り
     
     
       
           

    12月になったら来年のためにイワサキチヒロのカレンダーを買う。
   またその絵を見ながら新たな12ヶ月を過ごすのだ。
   そして、その絵を見ながら考えるのだ。
   世の中には壊してはいけないものがあることを、守らなければならないものがあることを、
   伝え遺さなければ ならないものがあることを。
   つまり、憲法九条と共に生きるということである。




           

 

        いわさきちひろ

  (本名松本知弘(まつもと・ちひろ、旧姓岩崎)1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、
 こどもの水彩画に代表される福井県武生市(現在の越前市)生まれの日本画家絵本 作家である。
 左利き。 つねに「子どもの幸せと平和」をテーマとした。

  初期作品には、岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロ名義で発表されたものが存在する。
 夫は日本共産党国会議員松本善明

 



    
2010年10月   「6」

      忘れられた革命、あるいは黙殺された独立
        
   ハイチ共和国
     
     
        1804年、ナポレオンのフランスから独立。
        世界初の黒人による共和制国家。


        

 

           

 

ハイチ・アートの歴史と、
 その魅力!

  カリブ海の島国ハイチは、隣国ジャマイカが
 音楽で知られるように、優れたアートで知られ
 ています。その昔、奴隷として入植されたアフリ
 カ系の人々が大多数を占めるこの国のアート
 は、宗主国フランスの印象派、ルソーなどの影
 響を受け、20世紀の初頭には独自のスタイルを
 確立。
 やがてハイチ・アートは欧米の外交官やビジネス
 マンの間で評判となりました。当時はナイーブや
 プリミティブと評されていたハイチ・アート。
 今では、世界のアートを学び、トレンドを知る若い
 画家達が、創造性と色彩感覚に富んだ新しい世
 界観を創り出しています。



 

      

 

        

    私たちにできること

  2010年1月に、カリブ海の島国ハイチ共和国を襲ったM7.0の大地震。被災地では、今なお懸命な
 復興作業がつづいています。
 こんなとき、過去に幾度も震災の苦しみを経験した日本人なら、被災地の人々のことを我が身のよ
 うに思いやることができるはずです。
 ハイチには、経済的・物質的な豊かさの代わりに、優れたアートがあります。ハイチ・アートの素晴ら
 しさを、たくさんの人に知っていただくとともに、少しでもたくさんの力を集めて、被災地へと届けたい。
 それが私たちの願いです。
 ぜひ一度、美しいハイチ・アートに触れ、震災復興支援にご協力いただければ幸いです。

    ハイチ・アートで復興支援をする会
              代表 井上ジェイ

 

   

  兄弟と友よ、私はトゥーサン・ルヴェルチュールである。
  名前は恐らく君たちのお陰で知られるようになった。
  私は我が人種への復讐を果たそう。
  私はサン=ドマングに自由と平等に拠る統治を望む。
  私はこれを実現させよう。
  兄弟たち、私と共に闘う者たちよ、集まれ。
  奴隷制の木を根刮ぎにしよう。

    我らの非常に謙虚にして非常に従順な僕
   トゥーサン・ルヴェルチュール
   公益のための、国王軍将軍




   近代的な革命概念は、歴史過程は突然新しくはじまるものであり、以前には知られていなかったか、語られるこ
  とのなかったまったく新しい歴史が展開しようとしている観念と解きがたく結びついている。
  これは18世紀末の2つの大革命以前には未知の観念であった。
  (中略)そこで、近代の革命を理解するうえで決定的なのは、自由の観念と新しいはじまりの経験とが同時的であ
  るということである。

   われわれが理解しているような平等という観念そのもの、つまり、各人はほかならぬ生まれたという事実それ自
  体によって生まれながらにして平等であり、平等は生まれながらの権利であるという観念そのものが、近代以前に
  はまったく知られていなかったのである。

   「革命」という言葉は、もともと天文学上の用語であり、コペルニクスのいう天体の回転によって自然科学で重要
  性を増していた。
  この言葉の正確なラテン語の意味は、このような科学上の用語法のなかに表現されており、天体の周期的で合法
  則的な回
転運動、を意味していた。

                               ハンナ・アレント『革命について』
                                            志水速雄訳・中央公論社
 
 



    2010年9月    「5」 

         責任者を処罰せよ 
     
      


   韓国に、元日本軍「慰安婦」のハルモニたちが共同生活をしている家があるのをご存じですか? それが「ナヌム
  の家」です。「ナヌム」とはハングルで「分かち合い」という意味で、その「分かち合いの家」では、元日本軍「慰安婦」
  の韓国人ハルモニたちが仏教団体の支援を受けながら、文字通りの共同生活を送っています。
  元日本軍「慰安婦」のハルモニたちは、過去の人ではありません。わたしたちと同じ時代に生き、同じ空気を吸って
  いる人間なのです。

   (注1) 2001年6月24日・加筆 今まで日本国内で使われていた「従軍慰安婦」という言葉は、強制的に繰り返し
   性暴行を受けた被害者の立場に立ったものでなく
   当時の状況を考えると適当でないとされ、国際的には「性奴隷(Sexual Slave)」「性暴力被害者」という用語が
   使われています。

   「従軍」には従軍看護婦などのように「自らすすんで」というニュアンスがあり、「慰安」も日本軍からのみの見方
   の言葉です。
   しかし、様々な理由から日本軍「慰安婦」歴史館の名前にも、「慰安婦」という用語が使われています。
   このホームページでは、広く知られている慰安婦という言葉にカギカッコをつけ、また日本軍の元で「慰安婦」の
   生活を強いられていたとして、日本軍「慰安婦」としています。

  (注2) 韓国・朝鮮ではお年寄りの女性のことを、親しみと尊敬を込めてハルモニと呼びます。

  (注3) すでに亡くなられた元日本軍「慰安婦」の方もたくさんいらっしゃいます。
  韓国国内の元日本軍「慰安婦」総申告者191名中、生存されているのは約150名だそうです。
  (関連図書『日本軍「慰安婦」歴史館パンフレット』より)



       「韓国・ナヌムの家に住んでいた
             姜徳景(カン・ドクキョン)ハルモニの描いた絵

          



  奪われた純潔


 




 
 

        無題



 
      姜徳景(カン・ドクキョン)

   (本人の証言から)

  • 1929年:慶尚南道普州 生まれる。
  • 1943年(15歳、高等科1年):先生に言われ挺身勤労隊として日本へ、富山県の不二越の工場で旋盤工として
  • 働く。給料は預金しておくという事でくれなかった。
  • (3,4ヶ月後)食事が少なく空腹のため逃げ出すが戻る。更に2,3ヶ月後逃亡、道で腕章をして肩に星が3つある
  • 「小林」という憲兵につかまりトラックに乗せられ山の中で犯された。更にトラックで移動小さな部隊付属のテン
  • トで他の女と一緒に4ヶ月間毎晩強姦された。
  • (4ヶ月後)更に「小林」によりトラックで移動、畑が広がる場所の大きな部隊の20人くらいの女がいる慰安所で
  • 兵隊の相手をさせられた。また防空壕の中でも兵隊の相手をさせられた。地名を聞いたらマツヤマあるいは
  • マツシロ(松代大本営と思われる)と聞いた。兵隊の「小林」は天皇陛下が避難に来る所と言っていた。
  • 1945年:ある日、泣いている声が聞こえ終戦だった。大阪へ更に伏木の朝鮮人部落へ移動。
  • 朝鮮人部落で働きそこの人と一緒に朝鮮へ帰った。
  • 1992年8月日本の長野県松代で講演
  • ナヌムの家に住む
  • 1997年2月:死亡
  
                                         キペディア   から 

 


  
     2010年8月    「4」 

         『原爆の図』



    丸木位里丸木俊

1901年、広島の太田川のほとりの農家の長男として生まれる。

田中頼璋、後に川端龍子らから日本画を学ぶ。

青龍展などに意欲的に出品を続けながら水墨画に抽象的表現を持ち込み、独自の画風を打ち立てる。

戦争前後は戦争に批判的なグループ、美術文化協会、前衛美術会などで日本画の旗手として活躍する。

戦後は現代日本美術展、日本国際美術展などに雄大で繊細な水墨画の発表を続け、从展に毎年、俊との共同制作を出品。

   1995年10月19日午前11時15分自宅にて、
   94歳の生涯を終える。

1912年、北海道雨龍郡の寺の長女、赤松俊として生まれる。

女子美術専門学校で洋画を学び、二科展に出品する。

戦前はモスクワ、ミクロネシアに長期滞在し、スケッチ多数を描く。

1941年に位里と結婚し、美術文化展、前衛美術展、さらに女流画家協会展に精力的に出品を続ける。

 数多くの絵本を手がけ、「日本の伝説」でゴールデンアプル賞、「おしらさま」「つつじのむすめ」「ひろしまのピカ」など民話、創作、記録
のあらゆる分野の絵本で数々の賞を受ける。

  2000年1月13日、敗血症による多臓器不全のため永眠。87歳。

 

  原爆の図 第1部 《幽霊》



   原爆の図 第2部 《火》

      


  原爆の図 第3部 《水》
     


    原爆の図 第5部 《少年少女》

         


 
    
広島は位里のふるさとです。親、兄弟、親戚が多く住んでいました。
  当時東京に住んでいた位里が知ったのは「広島に新型爆弾が落とされた」ということだけでした。
  いったい広島はどうなってしまったのか。
  位里は原爆投下から3日後に広島に行き、何もない焼け野原が広がるばかりの光景を見ました。
  俊は後を追うように1週間後に広島に入り、ふたりで救援活動を手伝いました。

   それから5年後、『原爆の図 第1部 幽霊』が発表されます。
  数年間描きあぐねた「原爆」を、水墨画家の位里と油彩画家の俊の共同制作で、やっとかたちにすることができたのです。
  はじめは1作だけ、その後は3部作にと考えていた「原爆の図」は、とうとう15部を数えました。
  最後に〈長崎〉が描かれた1982年までの32年間、夫妻は「原爆」を描き続けたのです。

 


 
   
 2010年7月  「3」

 
 

         沖縄美術

 

作家名:大嶺 政寛
作品名:馬のいる風景[仮題]
制作年:1960年代(推定)
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:92.5×72.5cm(F30)






作家名:大嶺 政寛
作品名:八重山風景
制作年:1970年
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:91.0×72.0cm(F30)





 


作家名:大嶺 政寛
作品名:糸満
制作年:1963年
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:93.5×74.5cm(F30)




 

作家名:名渡山 愛順
作品名:白地紅型を着る
制作年:1946年
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:63.0×45.5cm(F10)
 

作家名:名渡山 愛順
作品名:裸婦
制作年:1951年
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:60.5×48.7cm(F12)
 

作家名:名渡山 愛順
作品名:郷愁
制作年:1946年
材 質:油彩、キャンバス
寸 法:100.0×80.3cm(F40)
     
 


    
 2010年6月  「2」
     
     
   
    「第178回伊藤太郎水彩画展」から
          
             2007年 01月 23日
 
 


         ブレーメンの昔の小路

 

      マイセンの赤い屋根
 
    今回で実に178回目という水彩画個展。
 40年に姫路市生まれ。72年に北大院卒。77年理学博士。
 78年から毎年パリ大学客員教授。
 この略歴で想像がつくように伊藤さんは理工学の教員の傍ら
 長く情熱的に滞在先で水彩スケッチを物した。
 会場には独特のタッチの水彩画が44点と10数点の小品が
 展示されている。
 

 
    
   ベレーの伊藤さん。フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語そしてクロアチア語他が堪能で特にフランス語
  は寝言に出るというほどだそうだ。もちろん英語は必須。学者は外国語で発想する方が自然だ。

     画家の道具。
  独自に製作したという竹ペンの製作工程。これは奥から特別に出して説明をしてくれた。左から3番目の穴をうが
  つことで溝を切る時の割れを防ぐ。
  特にペン先の長さと幅と切り口の摺り合わせが命だという。出来たペンは麻糸で結んでテーパー部分で線幅を調
  整する。
  「つけペンの長さは3,4センチ、幅は2ミリがベスト」と数字で説明される。
  このペンがあるからアルシュ紙(厚手)の紙目に負けずにスミの「かすれた線」が引けるのだそうだ。
  写真には写っていないがスケッチの際は0.4ミリほどの水性ローリングペン(製図用か?)を使用。
         

 


 



       2010年5月   「1」


      新緑のノートルダム 

      伊藤 太郎 

 (星置在住・竹ペン水彩画家、元パリ大学客員教授)


 

 
 
   伊藤さんは先ず学者であり、次に画家であり、その次に声楽家であり、
  そして美食家であり、大旅行家であり、それから・・・・・その全体像を要
  約することは出来ない。
  なにものにも捉われることのない自由人、古代ギリシヤでは こういう人
  のことをエピュキリアンといった。
  そう、エピクロスの園の住人である。
  その伊藤さんの忘れてはならないもう一つの顔は、我が町星置の「九条
  の会」の代表である。
  1940年に播州は姫路に生まれた伊藤さんが思想・信条の違いを超えて
  守ろうとするものは「人間にとっての自由」というものである。


 


 

    著書水彩画でつづる                   
           フランス風景と       
                   美食紀行」 


  このあたりは寒く、ぶどうは作れないが、リンゴは沢山採れ、シードル(リンゴ酒)、さらに
 それを蒸留して作る香り高いカルヴァドスがある。
  
   「カルヴァドス(リンゴブランデー)のおいしいノルマンディー」

   あるの年の秋、ブドーの収穫の真最中の10月のボーヌの駅に降りた。
  一歩街に足を踏み出すとあたりはブドーをしぼった独特の甘い香りに満ち満ちていた。
  その漂う香りの中を泳ぐようにさまよい歩き、ワイン博物館にはいったり、ワイン蔵に
  はいって利き酒をさせてもらったり、気に入ったアングルを見付けては、そこに陣どって
  スケッチをしたりした。
    
      「エスカルゴのブルゴーニュ」
     
                     (本文より)