愚者の書架記    第二部

                  2019年4月1日から

  
        「クセジュ」(我、何を知るか)

     
       

    
    「書物について」

  私が書物に求めるものは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいと
 いうことだけである。

 勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きることを
 教える学問を求めるからに他ならない。

         ミシェル・ド・モンテーニュ

    『エセー』 第二巻十章   原二郎訳・筑摩世界文学大系
 

 
  NO  1     2019年4月1日

        
 
   「異境異客」

        ある旅人の肖像

    一句の道著は一代の挙力なり、

     一代の挙力は尽力の全挙なり。

                「三界唯心」

          道元 『正法眼蔵』


 

 
 

國中 吾風(くになか ごふう)

    本名: 拓(ひろむ)

 1941年(昭和16年)7月、樺太 本斗郡 本斗町字遠節沢(現サハリン ネベリスク市に生まれる。


 

梅雨の雷異境に異客たりしかな

                    國中 吾風

 

現住所 〒006-0802

          札幌市手稲区新発寒2条4丁目2-4

          新発寒九条の会 世話人

 

    

   この月の始め、國中吾風さんから郵便物が届いた。中を開けてみると大小二冊の句集が入っていた。小の方
  は第一句集『春果つる』(復刻版)、初版は2002年、大の方は第二句集『山麓の街』と題するもので、こ
  れは2019年の3月1日に北海道機関紙印刷から刊行されたばかりのもので、まだインクの臭いも生暖かい。

   『山麓の街』を開いてみると中に献呈の栞が挟んであった。これには驚いた。
  吾風さん、何を勘違いしたものか私ごときの無知無学の風狂無頼に文学の贈り物をしてくれるというのだ、恥ず
  かしながらこれは正に「猫に小判」「豚に真珠」の類である、しかしだ、そんなことは先刻承知の上での先行者
  の慈父にも似た愛であるとすれば、私にこの二冊を受け取る資格があるとは間違っても思わぬけれども、仰ぎ見
  て後を追う者としての立場で、一つの恩恵として素直な気持ちでこれを受け取らなければならない、と思う。
  ただし、理解できるかどうかは別な話ではあるけれど。
   先ずは、感謝の意を表す。有難うございます。
   ところで今、私は吾風さんについて何かを書こうとしてペンを取ったのだが、何が書きたいのか、何を書こうと
  しているのか、自分でもさっぱり分ってはいないのだ。

    第一に、私は俳句及び俳諧についての知識が全くない。そればかりでなく詩歌一般についての基礎的な素養も
  持ち合わせてはいない。さらに加えて、私という人間は何をするにしても持続と集中ということを知らない。

   形式も構想も定まらないとすれば後は鴎外に倣って「無態度の態度」といくしかないようだ。つまり、右手に持
  ったペンの運動にすべてを預けるということである。ただし、これは西欧のシュールレアリストのいう「自動記
  述法」とは違う、私は霊感によってペンと遊ぶことはしない。まあ、強いて言えば、知恵おくれの不良少年が洞
  窟の壁に書き殴った落書きのようなものだ。要するに、ホモルーデンス(遊ぶ人間)の深夜の祈りである。けれ
  どもこの先、仮にペンが折れたとしても、それは私の能力の不足を証明するだけのことであって、この敬愛の念
  を偽るものではない。

    最初に一つだけ断っておこう。
   私は吾風さんの精神世界を解読しようというのではない。そんなことはその道の専門家がやることであって、私
  の手に負えることではない。迂闊に手を出せば大火傷をするような危険なことはしない。また、そうした関心も
  ない。第一、それは生意気というものだ。告白すれば、幼少の頃より私の中では情熱と能力が仲良く同居すると
  いうような奇跡は一度も起こらなかったし、今もそうだ。
   私はただひたすら虚心を以って魂の漂泊者國中吾風さんの異境巡りの旅の後を追いかけるだけである。
   かつて幸田露伴(1867~1947)は、芭蕉七部集を評釈するに際して、「詩は会徳(えとく)す可し、解
  了すべからず。之を会得すれば、全く神味を領し、之を解了すれば、却って霊気を失う。高人は書を読むにだに、
  甚解を求めずといへり、雅客の詩に臨む、何ぞ繁註を須ゐん。」と言った。
   これは『露伴評釈・芭蕉七部集』(昭和31年発行)の巻末の解説の中の言葉だ。
   露伴は、詩は理解するものではなく、接して感ずるものだといっているのだろう。
   それはどういう意味かと言うと、「学ぶことの歓び」という一語に尽きる。経験の訓えるところ、自ら学びの姿勢
  をとる時、人間は幸福というものを知る。
これはアルベール・カミユが師匠であったジャン・グルニエについて語
  った言葉だが、ここで言う学ぶとは、師に従って遊ぶということである。
   
他の文学芸術のことは知らないけれども、俳句はその発生においては連歌であった。座の芸術?であった。これ
  が今日私たちが言う「俳句」の生みの父及び母であった。この辺りの消息については夷斎・石川淳の『文学大概』
 (中公文庫)の語るところを聴く。その第三章は「俳諧初心」、70頁。

    「明治の中ごろに、子規と号する歌のうまい人物がいて、器量も抜群で、批評眼もそなえて、野心も相当にあって、
  この人物が俳諧の場に分け入り、連歌の中から強引に発句だけを抜き取ってこれを新詩形に仕立てた。名前を俳句
  といひ、字数は十七文字、季題は舊の定めにしたがい、あたかも一句立の発句そっくりである。ひとがまちがえる
  のも無理はない。後に、子規が俳諧の連歌をみとめなかったといって非難するひともいる。だが、その時勢に合わ
  ないということを見て取ったのだとすれば、むしろ活眼であろう。この自家発明の俳句を押し立てて俳壇というも
  のを築いたのは子規の政治であった。」。

    石川さんは、俳句と俳諧は別物だと言っているのだろう。確かに、これは一面においては真である、がしかし、そ
  れは表現の形式のことを指しての意味であり、連歌の時代から発句は今日の俳句の性格を強くもっていたのは事実
  である。

   俳諧の歴史や連歌の約束事、また宗鑑・貞徳・西鶴の名前などを全く知らないとしても私たちは以下の句を時とし
  て口に乗せる。

   例えば、

   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る    松尾芭蕉 (1644~1694)

   年の瀬や水の流れと人の身は     宝井其角 (1661~1707)

   目に青葉 山ほととぎす 初鰹    山口素堂 (1642~1716)

   これがまあ 終(つい)のすみかか 雪五尺  小林一茶(1763~1828)

    菜の花や月は東に日は西に    与謝蕪村 (1716~1784)

 
   
 こうしたことが何故起こるのかと考えるに、優れた一句は俳諧であれ俳句であれそれ自体があらゆる背景や事情か
  ら独立しているということではないのか。そして、これは芭蕉から以降のことである。今一度、石川さんの説に耳を
  傾ける。


   歴史的には、宗鑑の後に貞徳が出て、これは再び舊圖形に模して一派を作ったが、やがて宗因西鶴の檀林派がおこ
  るに及んで、貞徳派に対抗しつつ俳諧の自由の旗を立てることになる。「さればここに檀林の花あり梅の花」とは、
  近代劈頭の民衆詩の宣言であった。さしあたり俳諧史を説く必要がないので、右の條はかく大雑把にすませておく。
  しかし、大雑把にしろ、この二三行ぐらいの沿革はたれでも小耳に挟んでおいたほうが便利であろう。

  といふのは、貞徳の弟子の季吟の弟子である芭蕉が檀林の季節の中に成長したからである。ちょうど両派の総合に当
  たるやうな境を起点として、そこから芭蕉は立ち上がって、元禄の新風を興したからである。

    小説『五重塔』を書いた過牛庵・幸田露伴は芭蕉研究の第一人者でもあった。
   露伴数え年16歳の時、給費生として遁信省官立電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余
  市に赴任した。しかし、露伴は母が恋しかったのか文学への情熱が抑えきれなかったのか、突如此処を逃げ出し、花
  の大江戸に向かって走り出した。露伴は最後の江戸人であった。決して文明開化の東京の人間ではない。御本人は、
 「眼前に刺激物があり、欲はあるがお金はない、希望はあるが望みは薄い、よし突貫(一気にやり遂げること)してこ
  の逆境から抜け出そうと決心した」と『突貫紀行』に書いている。「露伴」の号は、この道中に得た句「里遠し、い
  ざ露と寝ん 草枕」に因む。

    露伴が俳諧と俳句の違いをどう考えていたのかは分からないが、余市町の水産試験場敷地内には文豪幸田露伴句碑
  がある。

     塩鮭のあ磯と風吹く寒さかな(からざけのあぎとかぜふくさむさかな)

    その当時、余市町に俳諧の結社があったかどうかは分らない、また、あったとしてもそこに露伴が参加していたかも
  分からない。もし、なかったとすればこの一句は間違いなく俳句である。
   露伴には『雪紛々』という小説があって、これは寛文9年(1669年)に起ったシャクシャインの乱を扱った伝奇
  小説であるということだ。露伴は余市で日本海を眺めながら酒を呑んで遊んでいたのではなかった。まだ文字は紙の
  上に書かれていなかったとしても、既に第一級の小説家であった。

    鴎外のベルリン、漱石のロンドン、そして露伴の余市か。人は何処で何を学ぶかは分からない。鴎外は大知識人であ
  る。漱石は大小説家である。では露伴は何か、良く分からないが、それ以上の何かである。この存在を「文人」という。

    俳句評論家の山本健吉さんによれば、俳句の本質としての3カ条は「俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即
   興なり」ということだそうだ。これは山本さんの解釈であって他の人はそうでないと思うかもしれない。特に「滑稽」
   というものが本質と言えるかどうかの問題だ。私には、芭蕉のいう「かるみ」が「滑稽」が同じものだとは思えない。

  気分転換に現代俳句を読む。

      遠き世の如く遠くに蓮の花  山口 誓子 (1901~1994)

       勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男 (1901~1983)

        海に青雲(あおぐも)生き死に言わず生きんとのみ 金子兜太(1919~2018)

 

   國中吾風、「吾風」は号、本名は拓(ひろむ)。1941年(昭和16年)7月、樺太、本斗郡本斗町字遠節沢(現サハリン ネベリスク市)
   に生まれる。樺太という地名は今はない。出生の土地が既に異境であり、ご本人は土着の者ではなく、生まれついての異客である。
   元禄の時代ならば漂泊者、西洋ならば吟遊詩人といったか、現代の言葉では異邦人と呼ぶか。「異境異客」、これが吾風さんの背負っ
   た十字架であった。

   俳号「吾風」の由来については後で述べる。
    吾風さんの存在とその仕事について知ったのは今月の2日の夜のことであるから、それ以前のこと、すなわち國中拓さんの風景につ
   いて思い出すことを少しばかり書き記す。
    『山麓の街』の巻末にある著者略歴によれば、敗戦の1945年(昭和20年)、國中さんは母と二人で樺太(サハリン)から引き揚げ、道
   東の斜里郡上斜里村に一時寄留したということだ。
斜里は私が少年期を過ごした土地であるが、1949年(昭和24年)生まれの私は
   この年はまだ地上の空気は吸っていない。縁があるような無いような話だが、取りあえず書いておく。

    私が國中拓さんの名前を知ったのは、20代の始めのことで、処は十勝の池田町だ。
   池田町はワインで有名だが、その他にはこれといって何もない内陸の長閑な田舎町だ。
   その当時、私の父親である中本肇は池田高校で教師をしていた。父は奈良県の旧制畝傍中学から中央大学の法科に進み、卒後、
   道東の中標津高校に赴任し、その後斜里高校に転任し、十勝の池田高校で定年退職した男だ。
    畝傍中の大先輩には「日本浪漫派」の保田興重郎(1910-1981)がいた。保田は天才的な男ではあったが、その言動は左右に
   揺れの激しい男であった。要するに、文学的というよりも文壇的であった。

    中標津時代の同僚に米谷茂和という人がいて、この人は演劇の指導をしていた人で脚本も書いている。その劇作品『みんなチッキ
   タッキ』は東京の青雲書房というところから出版もされている。米谷さんはコミュニストで、リベラルであった父とは政治的立場が異なる
   が二人は生涯の盟友であった。その米谷さんは50代の中頃か、交通事故で亡くなられた。

    私事から話を元に戻す。
   その池田高校に若い頃の國中拓さんがいた。つまり、私の父とは職場の同僚であったということだ。同僚と言っても、父は大正15年
   (1926年)生まれだから昭和16年生まれの國中さんとはかなりの歳の差があるが、同僚であることには間違いはない。生きていれば
   父は今年93歳になるが、26年前に没した。

    私が國中さんの名前を知ったのはこの池田町でのことであった。
   父はこの若い同僚について「國中という凄い男がいる」とよく言っていた。
   「國中はゴルフ(VW)に乗っているんだ。ゴルフはシートが固くて長距離運転をしても疲れないと言うんだ。」などと車のことなどあまり
   よく知らないくせに嬉しそうに話していた。今はどうか知らないが、その頃は学校の教員の乗る車といえばトヨタのカローラか日産のサ
   ニーが定番だった。そういう風潮のなかでゴルフに乗って長距離運転
(何をしていたのかは知らないが)をする男、これだけでもダン
   ディではないか。
   父の國中さんについての話し方が、目上の者が能力のある若者を認めるといったような調子のものではなく、明らかに自分とは別の
   世界に住む人間の可能性について一目置いて語るといったようなものだったので、「國中」という名前は記憶に残った。

   父の中でなんとなく國中さんと米谷さんが微妙に重なっているような印象を受けた。
    その当時、私は池田高校の若い教員や事務方の人や父の教え子たちとよく麻雀をしたが、その中に國中さんが現れることはなかっ
   た。だからこの時点では國中さんについては名前だけを知るのみでお会いしてはいない。

    この4月の道議選に十勝から出馬する共産党の佐々木とし子さんは池田高校卒で父の教え子だった人である。佐々木さんは1954
   年生まれ、若いね。
   十勝はこの星置からは遠いけれども佐々木さんを応援しなくてはならない。風狂無頼の最初にして最後の親孝行として。
    ところで佐々木さんと云えば、國中さんと私の間にはもう一人書いておかなければならない女性がいる。
   手稲在住、名は明美、共産党の生活相談室長だ。フェイスブック風にいえば「共通のお友だち」ということになるか。佐々木明美さんは
   元市議・井上ひさ子さんの後継者である。職業や議席のことを言っているのではない。人が人から受け継ぐものとは、志(こころざし)の
   ことだ。それ以外に何がある。

   井上さんは斜里町宇登呂で少女時代を送った人で、私とは同年である。もちろん吾風さんのお友だちでもある。だから明美さんが行
   動を起こすとき私は全力をもってその戦いに参加しなければならない。この意味は、支持するのではなく共に戦うということだ。荷風散
   人を真似たわけではないが、私の左の二の腕には江戸の粋を今に伝えて「明美命」と彫ってある。いつか祭りの場で神輿を担ぐときが
   あったらみんなに見せたいものだね。越乃寒梅でも呑みながらお披露目したいよ。

   最後に北海遊侠伝を飾る一句を吾風さんから借りる。

         花に蜂 蜂に花あり 夏惜しむ

    ・・・・・・あれから40年近い年月が流れた。
     何年か前の秋のことだ。手稲の鉄北広場で共産党主催の「青空フェスタ」というお祭りがあった。その会場でスタジアム・コートを着
    た恰幅のよい初老の紳士に「中本雪人さんですか」と声をかけられた。この人がゴルフ伝説の男・國中拓さんであった。
    驚いたね。実在の人物であったとは、しかもこんな近くにいたとは。なんだかブエノスアイレスの魔術師ボルヘ・ルイス・ボルヘスの小
    説の世界に迷い込んだような気分だった。

     國中さんは何年か前に高校教師は定年で退職しており、今は新発寒で「九条の会」の世話人をしていると言った。職業には定年は
    あっても精神には定年というものはないということか。やっぱり伝説的な男だね。
    その日以来、今日まで親しくお付き合いをさせて頂いている。もちろん、学びの姿勢をとってのことだ。
    九条の会については別の席で述べる。
   さて、そろそろ國中拓さんのもう一つの人格の方に話を移そうか。

 

       東海道の一筋もしらぬ人、俳諧に覚束(おぼつか)なし

芭蕉
 
   3月5日・火曜日、斎戒沐浴して句集を拓く。
  第一句集『春果つる』、その自序を読む。

 

 

    「自序」

 藤田湘子氏の『俳句入門』(立風書房)に手を引かれ、また故江口慈氏

の文章などに励まされ、俳句らしきものを作りはじめて七年。「月産三十句

、一千句をめざせ」「俳句は多作多捨」と言い聞かせて、なんとか一千句を

こえた。日々の出勤の途上、菜園をかねた尺寸の庭上、小旅行の折の機など

が私の三上。他人の目に曝す度胸もなく、ただただ書き留めてきただけのも

の。はたして句になっているかどうかも怪しいのだが、ここに五十句を選ん

で、ご笑覧に供したい。

       2002年春

               國中 吾風 識

 

   

   句集『春果つる』は三部構成になっていて、「春果つる」は詠物20句、「凡骨先生」は人事詠10句、「旅ごろも」
 は旅行吟20句、合わせて50選である。
  最初にも言ったように私は評釈の真似事はしない。ただ吾風さんの周辺を一人勝手に歩くのみである。その散策の中
 で思い浮かぶことを紙の上に書いて遊戯の時間を自ら楽しむだけである。

 

    春月や息(なまぐさ)き逸(はぐ)れ猫 
 

        激動期それは模索期青嵐(あおあらし)

          けふもしづかにふりつむ雪やひと逝(ゆ)きぬ

        烈風の岬の薊(あざみ)多喜二の忌

         石の街灼くる石壁石畳

         一片の月長安に除夜の鐘

    「旅ごろも」の部を読みながら吾風さんの足跡を追いかけてみると、カイロ、トプカピ宮殿、香港、ローマ、エーゲ
   海、ユングフラウヨッホ、パリ、韓国慶州、西安、コペンハーゲン、ゲイランゲル、ヘルシンキ、サンクトペテルブ
   ルグ、オスロ、桂林、フィラデルフィア、ナイアガラ、ケアンズ、ストラットフォード・アポン・エイボン、クスコ、
   プーノ、バンクーバー、と世界中を走り回ることになる。俳聖芭蕉は「東海道の一筋も・・・・」などと呑気なこと
   を言っていたが、
吾風さんは五大陸、七つの海を駆け巡るのだよ。世界の至るところに歌枕ありだよ。なるほどね、
   俳句の本質の一つは「挨拶」であったか。

     エーゲ海ではこんな句を詠んでいるよ。

            眉目濃く歯白き男香水の

    「異境異客」とは吾風さんの人生観であったか。いや、一期一会の詩魂と言うべきか。

  漂泊の精神とは何か。
  ここで芭蕉の『笈の小文』の序章を開く。

   「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂
  句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事を
  ほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学
  で愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌
  における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」

   『笈の小文』は「おいのこぶみ」と読むのだと思うが、詩人の西脇順三郎さん(1894~1982)は「きゅうのし
  ょうぶん」と読むのが正しいと夷斎・石川淳との対談の中で語っていた。

   西脇さんには「旅人かえらず」という詩がある。

         旅人は待てよ
        このかすかな泉に
        舌を濡らす前に
         考えよ人生の旅人
        汝もまた岩間からしみ出た
         水霊にすぎない

    そして芭蕉だ。

            旅人と我名よばれん初しぐれ

    ここでも西脇さんは言う。「たびびと」ではなく「たびにん」と読むのが正しいと。
   吾風さんはどう読むのだろうか。
     第二句集『山麓の街』を開く。
    その第一頁、「序にかえて」、文は中村英史さん(「方円」さっぽろ句会代表)。
   「つくづく思ったことは、國中さんは一貫して全身で俳句をつくっておられるということだ。したがって思い付きとか、
   機知とか衒いとか、言葉遊びとかいった気配は感じられない句群が展開されている」と書かれてある。
     中村さんは吾風さんの郷里夕張の先輩だそうだ。その中村さんから頂いた助言が「俳句らしい俳句をつくろうとするので
   はなく、自分らしい俳句づくりに挑戦しては」というものであった。俳号「吾風」の由来はこれである。

      第一章「風光る」(04-07年)――――東来西行

      退職後は仕事から一切離れて、晴耕雨読、悠々自適の生活がしたいと夢見ていた。趣味の家庭菜園、山歩き、旅行、水墨
   画、太極拳教室とけっこう忙しい。
俳句も朝日俳壇(道内版)に投句したり、中村英史さんの句会に出たりする。
    そのうち、「地域九条の会」の世話役、町内会の会長職などが回ってくるようになり、「悠々」どころではなくなってきた。

            古茣蓙に割白菜の白さかな

     懐かしい風景だね。私が少年だった頃、斜里にはこういう風物詩はあった。
    吾風さんは、庶民の食の生活における鮮度とは何かということを言っているのかな、今は冷蔵庫とスーパーマーケットの時代
   だ。食に旬というものがなくなった。暖衣飽食とは、飼いならされた大衆のことである。

             多喜二の忌ダイヤモンドダスト浴びに出る

       幻想的だね。ダイヤモンドダストとは平凡社の百科事典では「大気中の水蒸気が冷えてできた氷の微細な結晶が、日光を
    受けてキラキラ輝きながらゆっくりと降下する現象。細氷
(さいひょう)。気温がおよそ氷点下二五以下の時に見られる」
    と解説されている。哀惜の中の希望か。

               閉山抗闇深くして冴返る

       郷里夕張の失われた時を求めての一句だろうか。多分、そこに居た人たちの声を聞いているのだろう。闇の中の遠い声、
    これは鎮魂歌か。あるいは風化に対する抵抗と解すべきか。

               啓蟄やお悔やみ欄を辿り読む

        広辞苑によれば、啓蟄とは、「冬籠りの虫が這い出る」ということだが、新しい命が生まれる春、そしてまた去り行く人。
    この対比に吾風さんの無常観を読み取るべきか。いずれにしても、吾風さんは春の午後、縁側でお茶でも飲みながらすべて
    の生と死の万物流転を祝福しているのだろう。私にはそう映るのだが。

               堆雪の底に光の雫かな

      この一句は雪国生まれの一茶にも詠めなかったね。吾風さんが発見したのは、「音と光」だ。これは俳句というより雅なる
    室内楽だろう。視覚・聴覚ともに超人的である。詩が音楽を超える、これは19世紀のフランスの詩人たちが夢見た奇跡だ。
    ボードレールは「コレスポンダンス(万物照応)」ということを説いた。

     意味は、「最大なる世界(マクロコスモス)は最小なる世界(ミクロコスモス)と影響しあい相似する」ということである。

               祖父も父もむかし樺太渡り漁夫

      これは一家族の思い出ではない。異境異客の吾風さんが私小説なんぞという俗界の遊園地で遊ぶわけがない。この句は日本
    の中世・近世・近代・現代の北の海の歴史を通観したものだ。その鍵は「渡り」という語の響きにある。
     1356年に記された『諏訪大明神絵詞』に14世紀初頭の蝦夷島に居住していた三つの集団について、「日ノ本」「唐子」
   「渡党」と分類している。
   太平洋側の集団を「日ノ本」(意味は東の地)、日本海側の集団を「唐子」(意味は北方系)、そして道南(渡島半島)を拠点と
   し津軽海峡を往来して交易を行っていた集団のことを「渡党」と呼んだ。今ここで北方史に立ち入ることはしないが、「渡り」と
   いう生の在り方にだけ注目しておく。因みに、「和人」という言葉が使われるようになったのは江戸時代後期である。江戸幕府が
   アイヌに対する日本人の自称として用いた「政治的用語」である。和人の日本人化を、言い換えれば、アイヌの異民族化を視覚的
   に決定付けしたのが松前藩家老であった蠣崎波響の『夷酋列像』である。波響については中村真一郎が史伝をものにしているが、
   その蝦夷史、北方史、アイヌ史には疑問が多すぎる。駄作である。

               はいたかや血糊を舐る(ねぶ)る舌の先

        はいたかを枝に寒木静まれり

    「はいたか」とは鷹科の猛禽類のことである。ウイキペディア(フリー百科事典)によれば、「『疾き鷹』が語源であり、それが転じて「ハイタカ」と
    なった。かつては「はしたか」とも呼ばれていた。元来ハイタカとは、ハイタカのメスのことを指す名前で、メスとは体色が異なるオスはコノリと呼
    ばれた。『大言海』によれば、コノリの語源は「小鳥に乗り懸かる意」であるという。」と解説されている。
     上の句は、榎本其角(後の姓は宝井)の一句を思い出させる。

              あの声で蜥蜴喰らうか時鳥

    下の句は、吾風さんの水墨画である。「孤愁」という言葉があったことを思いだす。

               海明けて誓子の門波騒ぎけり

    山口誓子は1901年(明治34)生まれで、1994年(平成6年)に没した京都府出身の俳人。1912年、12歳の時、先に渡っていた外祖父
    を頼って樺太に移住、1917年、中学校入学のため京都に帰った。門波(となみ)とは、海峡に立つ波、瀬戸に立つ波のこと。誓子には芭蕉
    を鑑賞した『芭蕉秀句』(春秋社・昭和38年刊行)という一冊があって、その中で次のように述べている。

    私などが、俳句を語るときに、まず問題にするのは感動のことである。はじめに感動ありきから説きおこすのである。【中略】感動は、物か
    らうけたひらめきに他ならない。感動のその状態は「物と我」とが一つになった状態である。感動のこと、それが物によって起こること、それが
    直感的なひらめきであることは、古人も文字の上では知っていたのである。

                  流氷や宗谷の門波荒れやまず     山口 誓子

   「門波」という言葉は古く、万葉集まで遡る。詩歌の世界には藤原定家の発明とされる本歌取りという技法がある。エズラ・パウンドやT・S・
    エリオットならばパロディというか。先人へのご挨拶ということだろう。

                 海霧(じり)深し修司を真似てマッチ擦る

    ここで寺山修司の名が出て来るとは思わなかった。寺山(1935~1983)は青森生まれで、何が本業であったかはよく知らないけれども
    、歌人にして作詞家にして劇作家にして実験劇場「天井桟敷」の主宰者であつた多才多能な奇人であった。

              マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

              『寺山修司歌集』

    毀誉褒貶は人の世の常、ここでは寺山の功績を一つだけ挙げておく。それはカルメン・マキを発見したことである。「時には母のない子の
    ように」、この一曲は確かに一つの時代に刻印を打った。ただし、カルメン・マキの代表作は寺山の抒情歌ではなく、ロック・ナンバーの『私
    は風』である。「海霧(じり)」は夏の季語。

                       サハリンへインドネシアの漁夫渡る

                       「狩りの海」(オホーツク)父その昔渡り漁夫

     「渡党」というのは本慣の地で政治的(武士階級)もしくは経済的(一般庶民)な基盤を失った人たちが海の向こうに新天地を求めるとい
    う行動様式であり、先のものは侵略性を持ち、後のものは逃亡の影を持つ。『新羅之記録』によれば、若狭武田氏の流れを汲む武田信
    広が下北半島の糠部郡蠣崎から移住したのが松前氏の起こりであるとするが、若狭武田氏云々は仮冒である。仮冒とは他人の名をか
    たるということである。武士の渡党の最後を飾ったのは幕末の榎本武揚である。榎本は夢を追い求めるにしては余りに現実的な男であ
    った。要するに、革命家を装った政治屋に過ぎなかった。これは思想家を装った福沢諭吉が実のところ軽佻浮薄の相場師に過ぎなかっ
    たこととよく似ている。分かり易く言えば、俗物である。
     秋田県の小作農家であった小林の一家が小樽で事業に成功した兄を頼って海峡を渡ったのは貧困から脱出を夢見てのことである。
    この家族の長男は多喜二である。吾風さんは北の海の漁労の風景に資本主義の暗部を見ているのだろうか。

                    初雪や薯蕷(とろろ)載せたる鰊蕎麦

     鰊蕎麦は、ものの本によると、京都四条大橋近くの南座にある、1861年に創業の「松葉」という芝居茶屋が元祖であるという。
    風流というものか。吾風さんの生活者としての一面を見る思いだ。難しいことは言わない。風流とは生活を仕切る美意識のことだ。
     森鴎外は史伝『渋江抽斎』(中公文庫)の中に「わたくしの敬愛するところの抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、いかなる用事
    をさしおいても玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。」と書いた。
                  

                  奪いつくされてずり山絮たんぽ

    「絮」とは、わた。真綿(まわた)。また、草木の種子についているわた毛のこと。
    夕張は吾風さんの第二の故郷だという。この一句を読んでの私の瞬間連想は「奥の細道」に迷い込む。

                       むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす

     この連想は的外れであるかもしれないが、時空の堆積の下に埋もれたものを見出す彷徨者の眼に共通するものが在るように思う。
    ただし、吾風さんには「淋しき」とともに「憤り」があるように思われる。國中吾風と言う人は、断固として傍観者の立場に立つことを拒
    絶する「知行合一」の人である。

                        祭礼や小さき漁港の大漁旗

     ふと、斜里町宇登呂の港の風景を思いだした。そこに幼き日の井上ひさ子さんがいたことも。網元の赤木立太郎さんは父の友人で
    あり、大家勝安さんは教え子であった。斜里の由来はアイヌ語の「サル」「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。ウトロ
    の由来は、漢字表記は「宇登呂」、アイヌ語の「ウト
ルチクシ」)その間を我々が通行する所)という意味だ。

                   山にふし海に浮寝のうき旅も慣れれば慣れて心やすけり

                          松浦武四郎 『知床日誌』

    武四郎の郷里・伊勢には「がいなもん」という言葉があるそうだ。意味は、「途方もない」「とんでもない」、武四郎はそういう男であった。

     私は後1年で70歳となる。本来は数え年で祝うそうだが、取りあえずは「古稀」である。これは中国の詩人杜甫(712年~770年)の
   詩句「人生七十古来稀なり」に由来する慶事だが、今時は70歳など掃いて捨てるほどいる。私に限って言えば、おめおめと、だらだらと、
   ぐずぐずと、恥を晒して生きて来ただけのことである。そんな歳だから人並みに角川文庫の『俳句歳時記』春夏秋冬の四部を書架の片隅
   に並べてはいるが、それで季節の変わり目にはパラパラと開いたりもするが、芭蕉と草田男以外のところで足を止めたことはない。要する
   に、花鳥風月の世界とは全く無縁な男なのである。それが不思議なことに今回、吾風さんの句集を手に入れてから毎日が楽しくてしょうが
   ない。たかが五七五の十七文字ではないか、読むのにどれほどの時間がかかる、確かにその通りだ。読むのには5分の時間も必要とは
   しない、けれども味わうとなると、一読、再読では済まない。私の理解が間違っていたとしても、それはそれでいい。優れた詩は解釈の多
   様性を許すだろう。 誤読、誤解、勘違いは、詩歌の世界においては読む者の許される領分、または特権である。
    
私見を言えば、俳句であれ散文であれ、良い文章とは、それを書いた人間の姿形(思想の刻印)が見えるものであり、次に、その文章
   について何ごとかを書きたいという欲求を生じさせるものであり、最後にその文章をもっと多くの人に読ませたいという思いに駆り立てるも
   のである。5日から今日(31日)まで『山麓の街』を一度も手放した事がない。枕頭の書とか座右の書などという美しい言葉もあるけれども、
   そんな人生論的なものや学問的なものはこの風狂無頼にあるわけがない。 
    ずばり言おう。『山麓の街』、この一冊は、私にとって精神のビフステーキ、もしくはロマネ・コンティである。読書もまた美味礼賛、すなわ
   ち快楽である。

           第二章 「芭蕉の花」(03-10年)―――― 異境異客

    中国は広い。歴史も長い。日本文化に強い影響を与えた国、詩文の国である。この24年間で11回渡航し、台湾や返還前の香港・澳門
   を含め主なところを観てきた。加えて07年8月からの1年間、浙江師範大学(金華市)で日本語教師をする機会を得た。学生たちと交流し
   ながら、山歩きをしたり、俳句を教えたりした。水墨画を習った。
                  

                   囀りのひときは高し雨あがる

    美しい情景だね。「王城にひばり鳴く物語も詩ではない」と西脇さんは言ったが、中国は湖南省の地に舞い降りた吾風さんには、旅人の
   感動がある。鳥の声は「旅人(たびにん)さんよ、雨はあがったよ、さあ、旅をつづけなさい」と呼びかけたのだろう。

              春眠の朝靄の中櫂の音

   これは一幅の山水画である。この時、吾風さんは絵を観ているのか、あるいは絵の中にいるのか。露伴のいうところの「観画
  談」である。今日の言葉では「幻想文学」というか。いやいや此処は中国だ。荘子様のお国である。とすればこの一句は、やは
  り「胡蝶の夢」というべきか。

               捨雛や馬王堆墓の奴婢の俑

  馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)は、湖南省長沙市芙蓉区にある紀元前2世紀の墳墓。利蒼とその妻が葬られている。
  
奴婢は「はしため」のこと、この時代では女奴隷のことか。俑は副葬された人形(ひとがた)のこと。 捨雛は、一家の災厄
  をはらうという意味で川に流された雛のこと。季節は春である。吾風さんは、やっぱり芭蕉の流れを汲んでいる人なのだね。

           月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

                              松尾芭蕉『奥の細道』

            はるけしや荊州古城の花華鬘

   荊州古城は悲劇の英雄・関羽が創建したと伝えられる城。華鬘は仏堂における荘厳具(しょうごんぐ)の一つ。

            夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡  松尾芭蕉

   どうやらこの中国紀行は弘法大師ならぬ先師芭蕉との同行二人(どうぎょうににん)の大唐三十三カ所の巡礼行と
  いうことか。先に進む。

              蜀の国白シャツの人劉という

  蜀漢の開祖・劉備玄徳の末裔に街角で出会ったのだろう。もちろんそんなことはない。洋の東西を問わず、詩法の
  奥儀の一つは「諧謔」である。イギリス人ならば「ユーモア」と言うだろうし、フランス人であれば「エスプリ」と
  いうか。

              夏草の徐州残兵たりし義父

  吾風さんは本物の旅人である。決して観光客にはならない。何の道義もない無謀な戦(いくさ)に駆り出され、敗
  北の中に見捨てられた男が背負わされた不条理な罪と罰。
  「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」とワイツゼッカーは言った。

             仲秋や仲麻呂唐に客死せる

  阿倍仲麻呂は知的渡党の魁か。仲麻呂の祖父は蝦夷を征服し、粛槙(みちはせ)と交戦したと伝えられる阿倍比羅夫
  である。

           あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

   仲麻呂は異国で望郷の念を歌った最初の男である。官費留学生仲麻呂は異国で没し、鴎外は帰国後栄達の道を歩んだ。
  小説『舞姫』は森林太郎の青春の季節の愚行の記録である。どちらが本物の詩人であったかは分からないが、鴎外・森
  林太郎は器用な男であった。

               朝食を提げ来る老爺花芭蕉

   伊賀の住人・松尾忠右衛門宗房の俳号は桃青であり、芭蕉と号すのは江戸は深川に居を移してからである。その草庵の
  庭に門人の李下から贈られた芭蕉が植えられていた。芭蕉は中国原産のバショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ
  という。「スケッチ・オブ・チャイナ」か、何とも絵画的だね。

               太平天国の戟錆びてあり枯蓮

  清朝の中国で、1851年に起こった洪秀全を主導者とする反乱。戟(ほこ、げき)は武器の一種。中国は古来より農
  業の国である。農民が徴税と徴兵で追い詰められた時、農民は土地を離れて流民となる。その流民が集団化したとき、反
  乱軍が結成される。彼らは何を求めたか、ユートピアである。辛亥革命の孫文にも、共産主義者の毛沢東にもこの思想は
  あった。王朝が徳を失ったとき、天が見切りをつけると言う考え方、ここに回転の正当性を求めること、これを「易姓革
  命」という。易姓とは、王朝の支配者の姓が変わること。

              雨後の池浮いてぴしゃりと鯰かな

  元禄風というか。いいねえ。老荘か、禅味か、何とも言えないね。
  静寂の中の一音、これが詩(ポエジー)というものだろう。本歌はやはり芭蕉であろう。

              古池や蛙飛び込む水の音

   蕉門十哲の一人、各務支考(かがみ しこう)はその著『俳諧十論』で、「情は全くなきに似たれども、さびしき風情
  をその中に含める風雅の余情とは此(この)いひ也」と述べている。

               梅雨の雷異境に異客たりしかな

   一歩下がって沈黙する。何も言うことは無し。
   ふと思い出すのはランボーのことだ。「永遠」とかいったか、あの詩は。


      とうとう見つかったよ。
      なにがさ? 永遠というもの。
      没陽(いりひ)といっしょに、
      去(い)ってしまった海のことだ。  (金子光晴 訳)

   吾風さんの「異境異客」、骨の髄まで痺れるよ

               洗濯女西施の故里や合歓若葉

  西施(せいし)は、中国の春秋時代の越の国の美女。合歓木(ネムノキ)はマメ科の落葉高木。合歓(ごうかん)と
  読めば男女が共寝すること。この木は、中国では男女円満の象徴であるとか。本歌は芭蕉の次の句か。

         象潟や雨に西施がねぶの花
  

   吾風さんの句には「艶」があるよ。上品なエロチズムというべきか。例えば、第一句集に収められている次一句。

                 彗星接近今宵は妻と鱈のちり

   誤解を恐れずにいえば、この一句、天変地異が起ころうともオイラは愛しの女房の柔らかさとぬくもりが天下の一大事
   と、性愛の実存主義を詠んだものかと思った。「
降る雪や明治は遠くなりにけり」の草田男のもう一つの顔。

                 妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
 

   「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる」とジョルジュ・バタイユは言った。
   この哲学者の著作集は1973年、サド研究家でもあった澁澤龍彦の訳で二見書房から出版されている。

               小春日や魯迅生家の小運河

    魯迅(ろじん・ルーシュン)は1881年生まれで、没年は1936年。本名は周樹人、弟は周作人。
  「打落水狗」、水に落ちた犬は叩けは『阿Q正伝』。 魯迅が小説を書いている頃、日本の文壇は白樺派の時代だった。この
   意味は、魯迅の関心が「状況」であったのに対して日本の文壇はそれぞれの私事にしか関心を持たなかったということだ。
   つまりは、「私小説」である。これは「文学」と「饒舌」の違いということである。

                  諸葛村たづね干菜を買ひにけり

   諸葛亮孔明(181~234)。別名は伏龍。『三国志』の「三顧の礼」で有名な軍師である。その子孫らが住んでいる
   ところが諸葛八卦村、子孫であることを証明するものは家系図以外にはないということだが、家系図というものは洋の東西
   を問わず何処の世界でも虚栄心が生むところの微笑ましき偽書であるから真贋を問うても意味はない。
   これは吾風さんのチャイナ・ラプソディーというものだろう。

 

           第三章「花野道」(03-17)――――山行回想

    足腰の衰えを感じて、山歩きを始めたのは50歳代後半からだが、退職して間もなく、百松山岳会(労山)に籍を置いた。(03-12年)。
   この10年間の山行記録をたどると、道内の中・低山を中心に、340回を超えている。他に海外トレッキングも18回(15か国)を数えた。
   そのつど俳句にしょうと挑戦してきた。

                     山攀じる雲霧の奥に鈴の音

  鈴の音が熊を避けるための警告音ではなく、鹿を呼び出す聖少女の合図であったとしたら舞台はドイツ・ロマン派の森の中
  ということになる。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『我が青春のマリアンヌ』である。聖少女は湖に浮かぶ古城の中にほ
  んとうにいたのか、それとも孤独な少年の妄想なのか、永遠の謎だ。
  デュヴィヴィエにはもう一つ、ジャン・ギャバン主演の『望郷』という作品がある。これもまたテーマは「異境異客」であった。

                      この先は踏み跡消えて葛の花

   本歌は芭蕉か。

                      この道を 行く人なしに 秋の暮

    あるいは草田男か。

                       なにもかも失せて薄の中の路

                      天寂寞(じゃくまく)地に豊饒の紅葉踏む

  難しい漢字が並ぶね。露伴、鴎外、荷風、夷斎を読む時は漢語辞典を手許に置いておかなければ前へ進むことができない。
  しかし、これが本を読むことの楽しさを教えてくれるのである。それは単に漢字の意味を理解するということではない、そうで
  はなくて、書かれた文章の奥行を味わうということである。寂寞とは、ひっそりとしていてさびしいこと。豊饒とは、土地が肥
  沃(ひよく)で作物がよく実こと。何とも音楽的だね。アントニオ・ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』の第3曲は
 「秋」か。

                雀鷂(つみ)止め静寂(しじま)をまとふ冬木かな

   雀鷂は、はいたかのこと。しかし、これが擬人法であるとすれば、雀鷂とは吾風さん自身の孤独のことだろう。本歌とするの
  はやはり芭蕉か。

                       青嶺深く切れこむ先へ国後島

   島は知床半島の東にある。渡るに渡れぬ鬼ヶ島である。名の由来はアイヌ語の「クンネ・シリ(黒い島)」である。
  天明9年(1789年)、この島から対岸の根室・標津方面までに広がる大規模な戦いがあった。「国後目梨の蜂起」である。
  首謀者のアイヌ人37名は松前藩によって処刑された。その後のことは武田泰淳の『森と湖の祭り』を読むしかないか。

                 羊歯の森羊の下顎骨ひとつ

   ストレイシープ(迷える羊)か、100匹のうち1匹足りないことに気付いた時、牧人はどうするのだろうか。時間のある方
  は新約聖書のマタイ伝を、宗教が嫌いな人は夏目漱石の『三四郎』でもお読みください。それでこの句が理解できるという保証
  はないけれども。

                  短夜や日の落ちきらぬ国境

   後一歩で国境を越えられるというのに、何かの理由で、あるいは何かの事情でその一歩を踏み出すことができない。明日への
  勇気が足りないのか、それとも昨夜の愛への未練か、よくあることだ。
  平安時代は中期、中古三十六歌仙の一人、能因法師(988-1050)の声を聴く。

                      都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

                古大陸の残片青歯朶タスマニア

  ルアー・フィッシングの世界には「タスマニアン・デビル」という名前のルアーがあって、これが湖での虹鱒釣りにはなくて
  はならぬ悪魔の爆釣兵器である。トラウト(鱒)とタスマニアがどういう関係にあるのかは分からないが、まあ、釣り師には興
  味のないことか。タスマニアデビルは世界最大の肉食有袋類である。いや、そんなことはどうでもいいか。
  オーストラリア南部にあるタスマニアは悲劇の島であった。国後島と同じように。

                   熊の棲むあたりベリーの酸味かな

   グースベリー、ジューンベリー、ブルーベリー、ストロベリー、クランベリー、ラズベリー、ブラックベリー、アドベリー、
  そしてハックルベリー。色々あるね。熊さんの好むベリーがどれなのかは分からないが、筏の上の少年が好むベリーの名前は知
  っている。もちろんハックルベリーだ。これはアメリカのブリティシュコロンビアやモンタナに住む先住民の伝統医薬(薬用植
  物)であった。特に目に効く薬であった。その他に関節炎、リウマチなどにも効果があるとのことだ。スラング(隠語・俗語)
  では、「取るに足らない人物」「馬鹿なやつ」という意味だ。
  「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウ
インの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」とヘミングウ
  
イは言った。
                  

                      冠雪の峰先住民の勇者の名

   冠雪の峰とは、「デナリ」のことか。アラスカの先住民族コユコン・アサバスカンの言葉で、デナリとは「偉大なもの」を意味
  する。以前は第25代大統領ウイリアム・マッキンリーの名前を取ってマッキンリーと呼ばれていた山だ。

                      シベリア鉄道終着駅や夏の果て

                          出兵後百年シベリア楡茂る

                          噴水の枯れし広場やレーニン像

   旅もそろそろ終わりか、カチューシャの国ロシアに入る。
   「レーニンに訣れを告げたことによって、かえって逆に、人びとはレーニンの名によって語られるような何かにふたたび出会わざる
   をえないような状況に投げ込まれつつあるということではないのか、と。」
              『未完のレーニン』白井聰著、講談社選書メチエ・2007年刊行。

  「足腰の衰えを感じて、山歩きを始めたのは50歳代後半からだが」と吾風さんは言うが、これは冗談だろう。海を渡り、山に登り、川に船を浮か
   べ、砂漠を横切り、街に遊び、旅を棲家とするこの高悟帰俗の大運動者の足腰のどこに衰えがあるというのだ。 ここで一休みして、夷斎石川淳
   の『夷斎虚実』(文芸春秋社・昭和51年刊行)を開く。

    足のことを済勝の具といふ。景勝の地を跋渉する道具という意味である。ことばの綾も味なもので、文人画の場合では、この表現ぴったりする。
   山水を踏みやぶって風景といふ可能の生活の象徴を突きとめたのは、この道具のしわざであった。われわれもまたあたへられた山水画の世界
   を鑑賞するためには、どうしてもてくてく足でそこにあゆみ入らなくてはならない。

              第四章「秋白し」(08―18年)――――山麓の街

  札幌市内での最高峰は手稲山(1023m)。山の北斜面を背にして北東方向に広がる扇状地、旧手稲村は、30数条の中小河川が流れ下る湿
  地帯だった。小樽・石狩・札幌を結ぶ交通の要衝として発展し、現在の札幌市手稲区は、人口約14万人の山麓の街となった。街なかの川に鮭が
  遡上し、鴨や鷺が来て、水芭蕉や白根葵が群生する。句材に事欠かない。

                            吹く風や蜘蛛糸噴きて光らせり

  仏法は信じないけれども蜘蛛の糸には縋りたいね。物の本によれば、芥川の『蜘蛛の糸』は、アメリカの作家で宗教研究家のポール・ケーラスの
  『カルマ』の鈴木大拙による日本語訳『因果の小車』の中の一篇が材源だそうだ。アルゼンチンの作家マヌエル・プイグの小説は『蜘蛛女のキス』だ。
  こちらの方は教訓を垂れるような少年文学ではない。テロリストとホモセクシュアルの対話だ。話は変わるが、沖縄の女郎蜘蛛は網にかかった蝙蝠
  を食べるそうだ。鳥が昆虫をではないよ、昆虫が鳥をだよ。まあ、雄であれ雌であれ蜘蛛には近づかないほうがいいか。

                           雪やまず無音の闇の仄あかき

   『トロイカ』はロシア民謡だ。幼き日を思い出すね。あの頃は雪は友だちだった。それが今は何だ。排雪に町内会費を払う老人見習いだ。確かに、年
  とともにロマンが消えていくね。そしていつかはこの老兵もか・・・・・

雪の白樺並木
夕日が映える
走れトロイカ
ほがらかに
鈴の音高く


                                    蝶鮫のまぼろし石狩川に冬

  石狩には尚古社という俳句結社があった。その社員に伊藤房次郎という人がいて、この人は代書屋で別に小間物・文具商も兼ねていた。
   俳号は柳蛙(りゅうあ)と名乗った。

       俤(おもかげ)の目にちらつくやたま祭

想いだすことみな悲し秋の暮

秋どこへ行くぞ錦をぬぎ捨てて

   房次郎の本名は井上伝蔵といい、秩父困民党の会計長であった。1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件の首謀者の
  一人だ。亡くなったのは1918年(大正7年)、野付牛町(現・北見市)である。享年65。ここにも異境異客の人生がある。
  この波乱に富んだ人生は2004年に神山征二郎監督によって『草の乱』という題で映画化されている。

                                    梯子急なるアンネの家や冬運河

  アンネ・フランク(1929-1945)は、『アンネの日記』の著者として有名なユダヤ系ドイツ人。ナチスの強制収容所でチフスに罹患して15歳
   でなくなった。「太陽の光と雲ひとつない青空があって、それを眺めていられるかぎり、どうして悲しくなれるというの?」と日記に書きつけた。
   早すぎたフランソワーズ・サガンか、「悲しみよこんにちは」。その日記のある部分はヘンリー・ミラーを思わせる。いずれにしても、ここでも異境
   異客である。

                              瓦礫野とされしふるさと余震余花

  いつでもそうだ。どこでもそうだ。故里と思う土地は必ず壊される、失われる。喪失の体験を何度積み重ねたら約束の土地に辿りつけるのだ
   ろうか。旅に生き、旅に死すか。

                              榾いぶるアイヌの地名花畔(ばんなぐろ)

    『大辞林』によれば、榾(ほた・ほだ)とは、掘り起こした木の根や樹木の切れ端。ほたぐい、ほたぎ。あるいは地面に倒れて朽ちた樹木。
   冬の季語。 
    「花畔(ばんなぐろ)」はアイヌ語の「バナウンクル・ヤソッケ」が由来、意味は川下人の漁場ということだそうだ。

                               朽ちてこそあれ木彫ビッキの夏

   砂澤ビッキ(1931-1989)、旭川生まれの彫刻家。父は砂澤市太郎(アイヌ名:トアカンノ)、母の名はベラモンコロ、戸籍上の名は「恒
   雄(ひさお)」。
   芸術のことは分からないので先へ進む。

                                 手術(オペ)室へ母の素跣(すあし)見送りぬ

    私にも母はいた。そして、この一句と同じ場面を経験した。息子として、別れの日が来るのがそう遠くないことだと感じるとき、思わず抱きし
   めたくなった。認知症の母は私の名前だけは憶えていたが、既に現実の世界は失っていた。
   あんなに美しかった母が、あんなに優しかった母が、古いアルバムの中に消えた。

 

                              温石や襤褸の匂いなつかしく

   温石(おんじゃく)とは、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて暖をとる道具。私が少年であった頃、斜里の農家ではまだ使われてい
  た。懐石料理の語源でもある。襤褸とは、着古して破れた衣服、または都合の悪い点、失敗のこと。

                              花冷えや文学館のデスマスク

   多喜二のデスマスクは小樽文学館にある。1933年2月20日、小林多喜二は築地警察署で虐殺された。虐殺の指揮を執ったのは警視庁
  特高部長・安倍源基、その配下で、直接手を下したのは、毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の三人だ。戦後、安倍は右翼結
  社「新日本協議会」を結成、政界の黒幕となった。毛利は埼玉県警察部長に出世し、中川は映画会社東映の重役になり、岩田はビフテキ店
  「スエヒロ」の経営者になった。
    多喜二の師・志賀直哉は日記に次のように書いた。

      アンタンたる気持になる、不図彼らの意図ものになるべしという気する。

                       丘を跨げば五月の風や日本海

    吾風さんは海を見ているのだろう。また旅心に誘われたか。サハリンに帰りたいのだろうか。帰る土地など何処にもないことを嘆いているのか。 
   それとも「
Lover, Come Back to Me」か、「恋人よ我に帰れ」、まさかね。  
             

                          明月や銭湯帰りの母と子と

    シャンプーやトリートメントなどというカタカナ商品が無かった時代のことだ。銭湯のタイルの壁には富士山と三保の松原があった。羽衣伝説の
   舞台である、あるいは駿河の国は茶の香りか、いずれにしても、それは家族というものが目に見える時代だった。その頃、父親は、家長と呼ば
   れていた。

                 第五章「冬埠頭」(09-16年)―――ポーの鳴る街

  古くから小樽は北海道経済の中心都市として栄えてきた。明治13年、全国三番目の鉄道手宮線が開通している。労働運動の発祥の地でもある。
  大正15年、小樽で北海道最初のメーデーがたたかわれた。小林多喜二は小樽合同労組に出入りしながら、「不在地主」などの作品を書いた。
  俳句愛好家も多い街。新俳句人連盟の小樽句会に、09年から7年間通った。

                       北辺の酋長(エカシ)の眼光青胡桃

   エカシと云えば葛野辰次郎(1910~2002)のことを思い浮かべるが、この場合のエカシは「長老」という意味であって、吾風
  さんの句では酋長となっているから英雄もしくは軍事貴族のことであろう。アイヌの英雄ならばコシャマインから数えて指折りでは済ま
  ないが、北辺とあるから地域は限定される。天明の狂歌師・平秩東作(へづつ とうさく)が著した『東遊記』に「宗谷のチョウケン」
  という人名が出てくる。チョウケン(長剣)については五十嵐聡美著『アイヌ絵巻探訪』に詳しく書かれている。狂歌については差し当
  たっては夷斎・石川淳の『文学大概』(中公文庫)に当たるか。

                         幸恵みすゞ多喜二あい年草蛍

  知里幸恵(1903-1922)金子みすゞ(1903-1930)小林多喜二(1903-1933)

  幸恵は読んだ。みすゞも読んだ。多喜二は全集を持っている。なのにこの三人があい年であることは今日まで気付かなかった。
  一冊の本を読んで一つの風景を理解する、その風景が他の風景と時間的に重なっていることを想像する能力がない、これが私の読書力の
  限界か。哀しいかな単眼なのである。複眼的な思考、これがどうしても身に付かない。だから物事の解釈が貧しくなる。

                           啄木の歩みし界隈夜の風鈴

   岩手、函館、小樽、釧路、東京、そして大逆事件。

       かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ    『一握の砂』

 

                         知里親族(ちりうから)に銀のしずくや花さびた

   その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽
  しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。
         『アイヌ神謡集』知里幸恵著。

   まわりの大地が眠っているうちに、自分の人生の棚卸しをしておこう。新しい年は新しい始まりを意味する。そして、新しい始まりは
  古い過ちを埋める好機。後悔によっては何一つ変えることができない。自分が擦り減ってしまうだけ。必要なだけの勇気は自分自身の中
  にある。 
          『今日という日は贈り物』ナンシー・ウッド著。

                         ヤン衆の残臭ありや閉じ番屋

   一説に、ソーラン節の原曲は、青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」で、これがヤン衆とともに江差に渡って来たという。
  ある日、季節外れの浜に出た。沖合に美しい街が見える。何処かで母の呼ぶ声が聴こえる。あの街はロシア人がネベリスクと呼ぶ街か・・
  ・・・蜃気楼の異称は「海市」であった。

                   あとにつづきし者らも老いて多喜二祭

   私がいまお茶を飲んでいるこの場所からそれほど遠くない町の横丁を、21歳のタキジと16歳のタキは肩を寄せ合って歩いていたのだ。
  ・・・・しかし、この愛は実ることがなかった。それはこの港町の昨日の思い出である。
      『聖地巡礼』第一番「港のある風景」  風狂散人記す。

                           汗はじく津軽三味線潮の鳴り

    名人・高橋竹山は、「三味線なんて音が大きく出ればそれで良かった。音が大きいから太棹を選んだんだ」と言っている。津軽三味線の
   特徴は、撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法にある。何故そうなったのか。音の大きさが勝負を決めたからである。初期の頃は、ボサ
   マと呼ばれる男性視覚障碍者の門付け芸であった。

                          帰省子の鞄一つや北斗星

    ここは余市。明治34年、この地に1人の男が生を受けた。男の名は、違星滝次郎、号は北斗、歌人にして社会運動家であった。没年は
   昭和の4年。27年の短い生涯であった。男はアイヌであった。アイヌとは、人間という意味である。つまり人間であった。しかも飛び切
   りの、最高級の、人間の名に値する人間であった。そのあまりにも短い、苛烈と至誠の人生は、人間とはいかに生きるべきかということを
   後の世のすべての人に教え示すものであった。

               世の中は何が何やらわからぬど死ぬことだけはたしかなりけり

                             違星北斗

             ふみにじられふみひしがれしウタリの名誰しかこれをとりかえすべき

                          バチュラー・八重子

                  トンネルを抜くれば眩し雪小樽

   海猫が喧しい峠の緩やかな坂道を下ると、山と海に挟まれた細長い隙間に古い煉瓦造りの家並みと小さな運河で有名な港町が見えてくる。
  歴史と文化の街だそうである。明治元年のオタルナイ騒乱から始まるこの街の歴史は、飲酒と政争と好色の陶酔歓楽の話題に事欠くことは
  なく、と言うより、ほとんどその三事の狂騒狂乱で、時を潰し、時を超え、時に飲まれて、今日に至る。小樽という街は祝祭的な空間である。
  陽が暮れて、とうの昔に遊びの時間は終わったというのに、何時までたっても家路につこうとしない子どもたち、それが小樽人である。

         第六章「冬ざるる」(05-18年)―――――憲法を生きる

   06年、憲法九条を変えんと登場した第一次安倍政権は、まず教育基本法を変えた。12年、再度政権についた首相は、秘密保護法、戦争
  法、共謀罪と強行を重ねた。嘘と捏造の政治手法と口先だけの不誠実な人間性が見抜かれ、国民からの信頼は地に堕ちた。だが、彼は九条の
  改変にしがみついている。俳人たちも「九条の会」を立ち上げるなど活発に情報を発信している。

               九条危うし刈り込み強く一冬木

               啄木忌ビラ配らせぬ怖き国

               敗戦忌切り抜き記事の黄ばみ濃く

               炉心溶融ダリの時計の灼け溶ける

               戦争法耳にざらつく春の塵

               アベ政治許さぬの書や兜太の夏

                   野ざらしの牛の頭骨フクシマ忌

              天皇の猫背パラオに驟雨かな

              署名に立つ口下手なれど寒けれど

              非戦への篝火一基シクラメン

              天狼(シリウス)や虚妄の海に太き水脈

   吾風さんは「新発寒九条の会」の世話人の一人である。星置にも九条の会はある。ここに吾風さんと私の今日的な
  (個人的ではない)接点ができた。今日的なというのは、状況の捉え方と、それに臨む姿勢のことだ。第六章「冬ざ
   るる」は護憲の立場で詠まれた句を収めているので、それまでの各章とは若干趣が違うと思われるかもしれないが、
   通底に響いている音は同じである。   吾風さんはこう語っている。「私にとって俳句とは、生活の記録である。
   何に喜び、何に悲しみ生きてきたかの報告である。職場から地域に居場所を移してからの15年は、趣味とボラン
   ティアに明け暮れる日々であった。80坪の菜園で野菜を育て、山に登り、海外旅行を楽しみ、地域九条の会の発
   展に、住みよいまちづくりに努めてきた。そこから生まれた句群に、読者の胸に届くいくばくかの詩情があるとすれ
   ば幸いである。」と。               
    吾風さんが母に手を引かれて樺太から逃げ出したのは4歳の時だ。年齢からして記憶も定かではない季節のことだ
   と思うけれども、だから言葉をもって一つひとつの事実を再現することは不可能だとしても、皮膚は、そこにあった
   不条理を全身に染み込ませて記憶しているのである。それが後の人生を決定付けて、無意識の行動原理を作る。そし
   て、それが精神の運動を導くのである。この時、「異境異客」は一つの哲学となる。

             感謝

    星置住人 中本 雪人  2019年3月31日・夜