愚者の書架記

        「クセジュ」(我、何を知るか)
        2010年5月から~2015年8月まで     第一部

   

    「書物について」

私が書物に求めるものは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たい

ということだけである。
勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きること

を教える学問を求めるからに他ならない。
ミシェル・ド・モンテーニ

『エセー』第二巻第十章  原二郎訳・筑摩世界文学大系




     「目次」

 

     1   ファシズムとは何か        2010年5月

       2   アメリカ・あめりか        2010年6月

       3   遊戯の哲学           2010年7月

     4   美味礼賛            2010年8月

     5   失われた時を求めて       2010年9月

     6   森の生活            2010年10月

       7   100万回生きたねこ       2010年11月

     8   エンゲルスの訓え        2010年12月

       9   年の初めに読み返す本      2011年1月

     10  オリエンタリズム        2011年2月

     11  「左翼」であるということの意味  2011年3月

     12  四月は残酷極まる月だ      2011年4月

     13  アデン・アラビア         2011年5月

     14  森 鴎外のこと         2011年6月

     15  異邦人、または本との別れ    2011年7月

     16  傾奇者(ダンデイズム)      2011年8月

     17  復興期の精神          2011年9月

       18  カザノヴァ回想録         2011年11月

     19  彷徨の聖書           2011年12月

       20  加藤周一のこと         2012年1月

     21  「蟹工船」を読む         2012年2月

     22  夜と霧             2012年3月

     23  アヴァンギャルド         2012年4月

       24  孤島              2012年5月

     25  自発的隷従論          2015年7月

     26  記憶、または闇を照らす意志    2015年8月

 

 

 

  NO 1       2010年5月

「ファシズムとは何か」

「1」 『茶色の朝』

フランク・パヴロフ 物語

ヴィンセント・ギャロ 絵

高橋 哲哉 メッセージ

藤本 一勇 訳

大月書店

陽の光が降りそそぐビストロで、ある男が友だちと
特になにを話すということもなく話しをしていた。
友だちが15年飼っていた犬を安楽死させたといった。
ここまでは何気ない時間の中での何気ない会話である。
問題は、安楽死を決定付ける理由が犬にではなく、人間
の世界の事情にあったということだ。
茶色はファシズムの象徴である。
 


   

「2」 『朗読者』
ベルンハルト・シュリンク著

松永美穂訳新潮文庫

 

映画『愛を読むひと』の原作である。
監督 スティーブン・ダルドリー
音楽 ニコ・ムーリー

出演 ケイト・ウンスレット
    
レイフ・ファインズ


 

   「3」   『ハイファに戻って』

ガッサーン・カナファーニー著

黒田寿朗訳

奴田原睦明訳
河出書房新社

 

 

   

  この作家は、PELE(パナスチナ解放人民戦線)のスポークスマンであった。
この本の中には、マスメディアが決して報道することのない「真実」が書かれている。
シオニズムはナチズムから多くのことを吸収している。と言うより、「優越と排
除」の
思想と言う点では、シオニズムこそナチズムに先行する人種主義なの
である。
いつの時代でも建国神話とは、潤色された植民地主義に他ならない。

    以上の三冊はこの5月に読んだものだ。余計なお世話だが、若い人に読んでもら
  いたいと思いここに取り上げた。
近頃、若い人の「活字離れ」ということをよく聞
  くけれども、これは若
い人に限ったことではなく、私の見るところ壮年も老年もあ
  まり本を読む
ことはない。そして一冊の愛読書を持つこともなく人生を終えてゆく。
   だから孤独の何たるかを知らずに、確かな己を持つこともなく、大衆の一人として
  日々楽しく生きていく。

    そして、気が付けばまたしてもファシズムの祭典である。
   マルクスはこう言った。
   「歴史は繰り返す。最初は悲劇だが、二番目は茶番として」と。
     本を読んだからといって人生に役立つ知識が身に付くわけではないし、経済的な
  ご利益があるということもない。しかしだ、本を読まず
してどうして自身の愚かさを
  発見することができようか。

    哲学における懐疑主義とは、自身の無知を知るところから、物事を、また世界を、
  判断するということだ。

   酒は呑むべし、女は愛すべし、本は読むべし。


NO 2  2010年6月 

「アメリカ・あめりか」


「第一の書」
わたしの都会への憧れは、当時の釣りにも影響をおよぼしている。
たった18フィートのガットリーダーとシルクの釣り糸と極小のフライを使い、イギリス製のナイロンのウ
ーダーを履くことが(こうもり傘を買いそうになったこともある)洗練された男の姿だと思っていた。 

もともとわたしはジェームス・スチュワートのようなおとなになり、マスの川が流れる谷間の牧場でヘレフォード種の牛の群れを育て、ラモーナとかなんとかいう素敵な女性を妻にして暮すつもりだった。 

 

ジム・ハリスン著
『死ぬには、もってこいの日』
大蔦双恵=訳  柏艪舎

かつてこの地で戦ったネスパース族は戦いの前に、「勇気を出せ、今日は死ぬにはもってこいの日だ」と言うのがならわしだった。
もし暇があれば、 
釣り人も、そうでない人も、読むべし。

 


   「第二の書」

夢を見ている最中にこれは夢だとわかっている、あのときのような感じだ。わたしは叫ぼうとし、一方で叫ぼうとしている自分を見つめていた。
災難というのは必ずしも生き残った者たちを団結させはしない。
ときには、救命いかだからお互いをつき落とそうとするようなところがある。

ハワード・オーウン著
『リトル・ジョンの静かな一日』
    
入江真佐子=訳 (早川書房)

 

もし暇があれば、

老いも、若きも読むべし

 


 「第三の書」

まわりの大地が眠っているうちに、
自分の人生の棚卸しをしておこう。
新しい年は新しい始まりを意味する。
そして、新しい始まりは古い過ちを埋める好機。
後悔によっては何一つ変えることはできない自分が磨り減ってしまうだけ。
必要なだけの勇気は自分自身の中にある。 

ナンシー・ウッド著
『今日という日は贈り物』
フランク・ハウエル絵
井上篤夫=訳(講談社)


もし暇があれば
男も、女も、読むべし

 


  「第四の書」

アンクル・トマホーク(物乞い主義)の否定]

 現代のインディアンの復権運動は、1961年にシカゴ大学で

開かれた「全国アメリカ・インディアン会議」にはじまったといえ

る。この会議に全国各地から参集した90部族を代表する
460人のインディアンは、「民族固有の権利」と「諸条約の尊重」を強調し、「慈悲と温情主義」を断固拒否する「目的宣言」を発した。
この基本線に立って、「宣言」は、1953年連邦議会で制定された「ターミネーション(連邦管理終結政策)の廃棄を要求した。

田虎男著
『アメリカ・インディアンの歴史』(雄山閣)


暴力によって神話化された経験は、絶えず再創造される。

もし暇であれば
右翼も、左翼も、読むべし

 


  「第五の書」

「リザベーション」とは、先住の部族が暮す土地としてアメリカ政府と条約を結んだ区域のことを言う。
「保留地」や「居留地」 と訳されることが多いが、適切な意味をもつ訳語が日本語に見当たらないので、そのまま「リザベーション」と呼ぶことにする。


「ネイティブ(先住の)」という言葉も、あとからアメリカ大陸へ移り住んだ人からみた表現である。

ぬくみちほ文・写真
『ナバホの大地へ』(理論社)

 

遠い昔から、この風土に生まれた人々が、この風土に生まれた神話を語り継ぎ、大地を母、空を父、太陽と神を敬いながら暮している。
もし暇があれば、暇がなくとも
朝でも、夜でも、読むべし

 「余計なお世話」

 以上の本を読み終えたならば、ジャックダニエルをオンザロックで呑み、

 その後はぐっすり眠り、夜が明けたら本屋へ走り、そして一冊の本を買

 いたまえ。

 知里幸恵(1903~1922)の『アイヌ神謡集』。

 


NO 3     2010年7月

遊戯の哲学

または「静かなることを学べ」

 


「第一章 文化現象としての遊戯の本質と意味」

遊戯の起源、基礎は、あり余る生命力を放出することである
と定義 できる。

  『ホモ・ルーデンス』

ヨハン・ホイジンガ(1872~1945)
高橋英夫訳  中央公論社 

『中世の秋』 堀越孝一訳・中公文庫(上・下)

『朝の影の中に』堀越孝一訳・中公文庫


  「遊び」は,あるはっきり定められた時間,空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。
 「遊び」は自発的に受け入れた規則に従っており,その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束
  力をもっている。遊びの目的は行為そのものの中にあり,緊張と歓びの感情を伴い『日常生活』とは
 『別のもの』という意識に裏づけられている。


『セルビアの白鷲』

この本は、『ウオールデン』を愛読し、フライ・フィッシングを
嗜む英国のスパイを描いた冒険小説である。 
特に優れた小説ではないけれども、『アレキサンドリア・カル
テット』を読む前に準備運動として読んでおくべきか。


山崎勉訳(晶文社

ロレンス・ダレル(Lawrence George Durrell
1912~1990、イギリスの小説家

ダレルの師匠は『北回帰線』を書いたあのヘンリー・ミラーである。


『山釣り夜話』
もしも、「釣り文学」というものが本当にあるとするならば
、それは小説家の余技というようなものではなく、釣り人が
書いた風雅の誠というようなものだろう。
釣りを嗜む人にも、釣りを知らない人にも、この本はもっと
読まれるべきだ。
その人生は、山中漂泊、異界草紙というべきか、見事である。

「山の彼方に幸いをもとめてここを去った人びとのあとを
追って、私もこの廃墟を出て行こうと思う」
         『山家獨居の記』

山本素石(本名 幹二)

1919年滋賀県甲南町生まれ
ノータリンクラブ会長
天理教滋京分教会長
日本渓流釣連盟理事
(財)日本随筆協会会員
1988年京都市北区にて死去




ノーマン・マクリーン(1902~1990)、アメリカの作家。 

70歳でシカゴ大学の教授を退職したあと書き始めた小説は、若くして亡くなった
弟の思い出を書いたもので、学術論文を別とすれば、これが彼にとっての処女出版であった。
その時、彼は74歳だった。
真に生きるとは、こういうことだ。


A RIVER RUNS THROUGH IT
監督ロバート・レッドフォード
主演ブラッド・ピット
クレイグ・シェファー

 


『釣魚大全』
The Compleat Angleror the
Contemplative man's Recreation.

哲学が嫌いな人でも、この本を読むと何となく哲学者らしき者になってくる。と言うより、哲学
というものが「静寂」を愛する人生の態度である事に気付き始めるのだ。
この人の生きたイギリスは決して平和な時代ではなかった。
クロムウ
ル、そしてシェークスピアはこの人の同時代人である。
1653年、この人がこの本を世に問うたとき、既に60歳であった。
「静かなることを、学べ

アイザック・ウォルトン(1593~1683)

イギリスの随筆家・伝記作家・釣り師。
この本は世界中で読まれている。釣り人の聖典である。
第一部はウ
ルトンが書き、第二部は弟子のチャールズ・コトンが書いた。
しかし、この本は釣りをまったく知らない人が読んでも充分に楽しみ、かつ味わうことができる。
なぜなら、ここに印刷されたものが、読者の趣味を問わず、第一級の文学であるからだ。

 


 

 

 

僕は先の冬の間、この詩画帖?を開きながらバーボンを飲んで、夏の川の夢を見ていた。
深々と雪の降り続ける静かな時の中で、ふと谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を思い出していた。

谷崎は紙の持つ温かみというようなことをいっているのだが、「そうして手ざわりがしなやかで
あり、折っても畳んでも音を立てない。それは木の葉に触れているのと同じように物静かで、
しっとりしている」と書いている。流石に名文である。
神谷さんの作品もそういう佇まいである。
しかし、作品がその直下に映した幻影はどうやら一匹の水生昆虫である。どちらが見立てか
解からぬけれども、この虚実のからくり、エネルギーの放出は、もう長い間忘れていた、あの
夕暮れ時の別れの哀しみを思い出させる。
そう、少年・少女の遊戯の時間である。

 

「ペーパー・フライズ」

 

紙によるフライタイイングとフライ・フィッシング
神谷利男著  星川新一写真  出版社つり人社


NO 4  2010年8月

「美味礼賛」



 

『長田弘詩集』

読書というのは、「私」を探している本に出会うという経験です。
どんなときも、わたしたちにとって、未知の親しい友人である本。
のぞむべきは、本は「私」の友人、というあり方でなく、「私」は本の友人、というあり方です。 



詩人長田弘   1939年福島市生まれ 

 

『美味礼讃』上・下二巻

原題は『味覚の生理学』

禽獣はくらい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る。 
新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである。
だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅう
その幸福を引き受けるということである。


ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(1755~1826)
フランスの法律家・政治家
 



『詩人の食卓』
 高橋睦朗
 (1937年生まれ)


この人は『読みなおし日本文学史』を書いた詩人である。
そこには、こんな事が書かれてある。

「わが国の文学史は、歌、連歌、俳諧を中心に、歌の運命の歴史、さらに
はっきりいえば歌の漂泊の歴史、さすらいの歴史と捉えることができる。
もちろん、歌に従って歌びとも漂泊した。その漂泊は歌を表にたてての読人
しらずとしての、無名者としての漂泊だった」
「文学の最初のかたちは歌であり、歌の最初のかたちは神の言葉だった」

こういう詩人が書くと、それが何について書かれたものであれ、祈祷の書である。
それ以外に読みようがない。


袁枚(えんばい)1716~1797

清代の詩人

袁隋園お名は枚(ばい)、字は子才、号は簡斎であるが、
その居宅の名によって世人は多くこれを隋園先生と称した。

「学問の道は、知識を先にして実行を後にする。飲食の事も
同様である。そこでまず、予備知識を説くことにする」

「良き料理人は先ずたびたび包丁を磨ぎ、たびたび布巾を換え、
たびたび砧板を刮ぎ、たびたび手を洗って、しかる後調理する。」



 

岡倉天心

1863~

1913

 


西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国
とみなしていたものである。しかるに満洲の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。

この本は茶道を通して見た東西の比較文明論であり、これは一つの原型をなすもので、この後こうした発想の本籍不明の本は多くの日本人によって書かれた。
彼我の特徴を単純化し拡大化して描かれるときに見失われるものは何か、それが問題である。

西洋対東洋というときの東洋とは何処の国または地域のことを指すものなのか、この曖昧性の中にすでにアジア主義が根を下ろしている。近隣諸国ではなく西洋に対して東洋なるものを解かり易く解説する人は、これまでのところ思想家というよりも商売人であった。
武士道について、禅について、茶道について、その他諸々。


      「あとがき」

  「美食」とは、厨房を知らずして物が美味いか不味いかの判断をする俗物紳士の暇つぶしのことではない。
 美食とは、その食物を産んだ土地の歴史を尋ね、その風土に親和し、その人情に馴染み、その調理の方法を
 学び、その後に初めて口に入れる文化の味わいである。この時、「美食」とは旅人の「教養」という意味を
 持つ。因みに、足のことを「済勝の具」という。景勝の地を跋渉する道具という意味だそうだ。また古くは
 「書剣の徒」という言葉もあった。
「高等遊民」というのも懐かしい言葉だ。海の向こうには「ホモルーデンス」(遊ぶ人間)という粋な言葉も
 ある。ヨハン・ホイジンガは、遊戯は人間活動の本質であり、文化を生み出だす根源であると言った。彷徨
 の遊戯人の原型は、書物を入れた笈を背負って異邦の土地をさまよい歩くという生活だ。


      NO 5   2010年9月

「失われた時を求めて」

マルセル・プルースト

1871年7月10日生

1992年11月18日没

  本を読むとはどういうことか

  イギリス人のラスキンが書いた『胡麻と百合』をフランス人のプルーストが翻訳した。それをまた日本人
 の吉田城さんが翻訳した。プルーストはラスキンの何に共鳴し、何に反撥したのか、そして何を否定した
 のか。それは読書とは何かということである。
 自己創造としての反駁的読書について考える。

訳者序文「読書について」

  子ども時代の日々のなかで、それを生きることなく過ごしてしまったと思った日々、すなわち好きな一冊の
 本と共に過ごした日々ほど、十分に生きた日はないのかもしれない。

 他の人びとにとってはその日々を満たしているようにみえたものすべて、私たちが神聖な楽しみに対する
 低俗な障害物としてしりぞけていたものすべて、たとえば一番面白いくだりを読んでいる時に友達が誘いに
 来た遊び、ページから目を上げさせ、あるいは場所を変えることを余儀なくさせるような邪魔な蜜蜂や日光。
 持たせてくれたのに手もつけず、すぐわきのベンチ上に置いたままにしてあるおやつの食べ物、そうしてい
 るうちに頭上の青空で太陽は力を弱めていく、あるいはまたそのために帰らなければならず、食事がすんだ
 らすぐに中断していた章を二階に上がって読み終えることばかり考えていた夕食。そうしたものすべては読書
 にとって邪魔者以外の何ものでもないと感じられたはずのものだが、逆に読書は私たちの中にその非常に甘
 美な思い出を刻み付けてくれるので、(現在判断するところでは、私たちが当時あれほど愛読していた本よ
 はるかに貴重な思い出なのだ)、今日なお、昔読んだそれらの本をひもとくことがあるとすれば、それはもは
 や、過ぎ去った日々に関して私たちが保存している唯一の暦としてのみであり、それらのページの上に今では
 存在しない住居や池が映しだされているのを見たいと願ってのことである。
    (中略)
 読書は精神生活の入口にあるものだ。私たちをそこに導き入れることはできるが、精神生活を形成すること
はない。

 

『越境の時・1960年代と在日』

鈴木道彦著(集英社新書)

もし私がフランス文学の研究者でなかったら、在日朝鮮人の問題を重要な課題
 とすることもなかっただろうとさえ思われる。 

 ところで金嬉老は、本名さえ曖昧な人物だった。1928年11月20日に静岡県清水市で生まれたが、実父は
 権命述(クオンミヨンスル)、このときの彼の名前は近藤安弘こと権禧老である。彼が5歳のとき、父親は港で
 の積みおろし作業のさいにウインチから落ちた材木が胸にあたって死んでしまう。母親はその後、リヤカーを
 引いてくず拾いを始め、後に豚飼いで生計を立て、数年後に金岡(清水)藤太郎こと金鐘錫(キムジョンソク)と
 再婚する。このときから彼は、金岡安弘または清水安弘こと金嬉老と呼ばれるようになる。


「注」『プルーストを読む』(集英社新書)を併せて読むことをお薦めする

 

『読書日記』みすず書房

著者エルンスト・ローベルト・クルツウス

訳者生松敬三

 

 

プルーストの作品は、バルザック以来のフランスが産み出したもっとも実質的な 創造力を秘めている。
 彼の著作からは、生命と精神、悲しみと喜び、善意とユー
モアが、無尽蔵にあふれ出てくる。
 『失われた時を求めて』、この一つの観念だけでも、現代小説の最高に賞賛を浴 びた諸作品をはるか
 に超える構想の天才性を立証している。

  ジョイスの書物もこれと並べれば、冷静な芸術家の四苦八苦の実験のように思われる。ジッドの小説
 だって機知に富んだ娯楽もののようで、それは第一に作家の
人格によって読者をひきつけるのだから、
 モンテーニュの随想録と同じこと。

  「注」『現代ヨーロッパにおけるフランス精神』(みすず書房)もお薦め

 

『アクセルの城』ちくま学芸文庫

著者エドマンド・ウルスン

訳者土岐恒二


 思うに、ただプルーストの人物の現れ方が非連続なのであって、その展開が非連続なのではない。
 彼らは、プルースト固有の言語によって、ある法則を解明するように計画されている。彼らは異なった
 時間と異なった場所に、異なった観察者によって見られるように、異なった側面の連続のなかに、我々
 の前に現れるけれども、彼らの行為、彼らの個性には、従わずにはいられないような論理がある。
  さりながら、ある一つの時間には一つの側面しか示さない人物の表現法は、プルーストの偉大な技巧
 上の発見の一つである。このことを解明するには、しばらくとどまらなければならない。プルーストの、
 より重要な人物は、かくも多くの相を通過するように作られているので、彼らの歴史を簡単にたどること
 は不可能であろう。
  だが我々は従属的な一人の人物の変貌に注目することはできよう。

  「注」僕が読んだのは大貫三郎訳(せりか書房)の本です。
 

   20代の時、私は恋愛小説として読んだ。30代の時は芸術家小説として読んだ。
  40代の時は哲学小説として読んだ。50代の時は反戦小説として読んだ。
  そして今は60歳を超えた。私は、私自身の物語としてプルーストを読んでいる。
  どの頁にも私が隠れている。プチット・マドレーヌの奇跡。


NO 6  2010年10月

『森の生活』

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
Henry David Thoreau 
 1817・7・12~1862・5・6  享年45歳

 

 ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、
 人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていな
 かったなどと思いたくなかったからだ。
 生活といえない人生など生きたくなかった。生きるということはそれほどだいじなことなのだ。

ヘンリー・ミラーを崇拝したロレンス・ダレルは『アレクサンドリア・カルテット』を書いた。そのダレル
 に『セルビアの白鷲』という小説がある。これはフライ・フィッシングを嗜むイギリスの軍事探偵の冒険
 小説といったもので特に優れているといったものではないけれども、その中でなぜかソローの『ウ

 ルデン』からある一節が引用されていた。それは第2章「住んだ場所とその目的」の最後のほうにあっ
 た。

  「時間というのは、ぼくが釣りに行く川にすぎない。ぼくはそこで水を飲む。けれど、水を飲みながら
 も川底の砂を見て、どれほど浅いものかを知るのだ。わずかな流れは滑ってゆくけれども、永遠は残
 る。」

  なるほど、これが哲学というものか。
 ソローは、戦争(南北戦争)と奴隷を支持する政府のために税金を出すことを拒んだ。
 「人はやがて朽ち果て、いずれは盗人がもっていってしまう財産をたくわえることにきゅうきゅうとしてい
 る。これは愚か者の生活だ。
今日では哲学教授はいるけれども、哲学者はいなくなってしまった」

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
  マサチューセッツ州コンコード市出身。ハーバード大学卒業後、家業の鉛筆製造業、教師測量
 
の仕事などにも従事したが、生涯を通じて定職につかず、やがて学生時代に熟読した『自然』の著者
 で超絶主義者の
ラルフ・ウォルドー・エマソンらと親交を結んだ。
  自費出版した処女作『コンコード川とメリマック川の一週間』(1849)は、若くしてこの世を去っ
 た兄とのボート旅行をまとめた随想で、当時の社会には全く受け入れられなかった。

 代表作『ウォールデン-森の生活』(1854)は、二年二ヶ月におよぶ森での一人暮らしの記録をまと
 めたものであり、その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。

  ソローの死後『メインの森』(1864)や『コッド岬』(1865)などの旅行記や、自然誌エッセー、
 日記、書簡集等、数多くの作品が出版されている。

 ソローの作品は、人間と自然との関係をテーマにしたものが多く、自然文学、いわゆるネイチャーライ
 ティング
の系譜に位置づけられる。
  多くの著作に現在の生態学に通じる考え方が表明されており、アメリカにおける環境保護運動の先駆者
 としての評価も確立している。日本においても
アウトドア愛好家などに信奉者が多い。
 ソローは奴隷制度とメキシコ戦争に抗議するため、人頭税の支払いを拒否して投獄されたことがあり、
 その様子は「
市民的 不服従」としてマハトマ・ガンディーインド独立運動やキング牧師の市民権
 運動などに思想的影響を与えた。

  なお代表作『ウォールデン-森の生活』は、日本で明治44年(1911年)に水島耕一郎によって翻訳され
 た後、
21世紀の現在に至るまで多くの翻訳が出版され、代表的な翻訳は10数冊(抜粋訳等を含めると約30
 
冊)ある。原書のペーパーバック版も容易に購入できる。          「ウキペディア」から

  ある夏、休日はいつも支笏湖で虹鱒釣りをしていた。
  そして、夜は遅くまでこの本を読み、バーボンを呑みながら朝を待った。
  そんな時間の中で時々、「アメリカの良心」というものについて考えた。
  マーク・トウエイン、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラー、あとは誰だ。
  『ローマの休日』を書いたダルトン・トランボ(1905~1976)がいた。
  コカコーラとハンバーガーのアメリカ、しかし、もう一つのアメリカは確かにある。
  それらの人々が多数派になることは一度もなかったけれども。
  ・・・何処からかオーティス・レディングの『ドック・オブ・ベイ』が聴こえてくるような気がする。


NO 7 2010年11月

       100万回生きたねこ』
作家の佐野洋子さんが死去

 『100万回生きたねこ』で知られる絵本作家でエッセイストの佐野洋子さんが5日午前954分、
乳がんのため亡くなった。72歳だった。葬儀は近親者のみで執り行い、後日、お別れの会を開く
予定。
 佐野さんは1938年、中国・北京生まれ。武蔵野美大デザイン科を卒業後、196768年にかけて
ベルリン造形大学でリトグラフを学ぶ。
帰国後はデザイン、イラストレーションなどの仕事を経て、『やぎさんのひっこし』で絵本デビューした。
2003
年紫綬褒章受章、2008年巌谷小波文芸賞受賞。
人生や愛について綴った『100万回生きたねこ』(1977/講談社)は子供から大人まで親しめる図書
として178万部のロングセラーとなっており、海外絵本の訳本もある。そのほか、主な著作に『おじさん
のかさ』(講談社/産経児童出版文化賞推薦)、『わたしのぼうし』(ポプラ社/講談社出版文化賞絵本
賞)、『ねえ とうさん』(小学館/日本絵本賞、小学館児童出版文化賞)。エッセイに『ふつうがえらい』
(新潮社)、『神も仏もありませぬ』(筑摩書房)、『覚えていない』(マガジンハウス)、『シズコさん(新潮
社)。

 

 その本の序文は弟子であったカユが書いていて、そこではこの師弟関係についてこんな風に語られている。

「当時誰にも増して、何かに傾倒する欲求をいだいていた私にとっては、しかるべきときにひとりの師を
 見つけた幸運、幾年月と数々の作品を通してその師を愛し、賛美しつづけることができた幸運を、あり
 がたいと思うほかはないのである。
 なぜなら、その人生にあって、少なくとも一度、そのような熱狂的な従順を経験することができるのは、やはり
 一つの幸運にちがいないからだ。」

  ところで、『孤島』とはいったいどんな本なのか、猫の名前はムールーと言う。

 ムールーは死んで庭に埋められた。そして落ちてくる枯葉につつまれた。
 その後、僕は生きるのに忙しくて永い間猫のことは忘れていた。正確に言えば、グルニエとムールーの間に
 あった「楽しみと日々」という奴だ。それが何であったのかを思い出させてくれたのが佐野洋子である。その時、
 僕は還暦の一歩手前であった。なんという回り道であろうか。グルニエは猫について、と言うより人生について
 こんな風に語っている。

  「たそがれ、昼がその最後の力をつかいはたすあの苦悩の時刻に、私は猫をかたわらに呼んで私の不安を
 しずめた。そのような不安を、私は誰に打ちあけることができたか?
 月光に照らされた廃墟を前にして、私は思った、人間は人間から受けつぐことができる、と。そしてこの受けつ
 いだもろいもので足りる、と。
  私はほとんど『千一夜』しかひらかなかった。私は午前中は外出しなかった。外出するときは、一日中ふきげ
 んになった。ムールーが子猫のとき、私は彼からそのような規則を学んだのであった。
 人生は一つの狂気であり、この世界は一片のはかない煙であると思っていた時期に、「浮薄な」主題について
 のまじめな研究ほど私にふさわしいものはなかった。
 夏のおわりに、いよいよムールーの運命を決めなくてはならなかった。

  そして、長い彷徨の季節が終って、僕はまた猫について書かれた本を開いた。
 それが佐野洋子の『100万回生きたねこ』である。
 この本を教えてくれたのは十勝の国はトムラウシの旅の宿「山の交流館とむら」の女主人である。なるほど、本
 (詩)は友人を数える方法であったか。
            
御冥福を祈る。

来い、わたしの美しい猫よ、恋わたるわたしの胸の上に。
  お前の趾の爪を隠して、
  金属と瑪瑙とに織りなされたお前の美しい目の中に、
  わたしを沈ませていておくれ。

                 ボードレール


 NO 8  2010年12月

   エンゲルスの訓え

では紳士諸君、勇気を出せ、
口をとがらせただけではだめだ、
口笛を吹かなければだめだ!


マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文

フリードリヒ・エンゲルス
1820~1895

 
 

新聞やテレビがほんとうのことを伝えない世の中では、こまめに本を探して読むしかない。
情報を受けとめるときに大事なことは、発信者の時間の鮮度よりも受信者の知覚の鮮度である。
それは何が本質なのかを、見極める感覚のことであろう。「自己責任」などという言葉に惑わされてはいけない。それは、自らの行為に責任を取ることを知らぬ者の戯言(たわごと)である。
 

     風狂散人


   「1」 『豊かさとは何か』岩波新書

暉峻淑子(てるおかいつこ)

 戦力の放棄、財閥の解体、農地改革、労働組合の合法化による経済の民主化が、経済の高成長
 の原動力になったことは、言うまでもない。そこでは、民主化と経済成長は表裏の関係にあった。
 そしていまでは「経済大国」という言葉をきかない日はないほどになった。しかし、カネとモノをひけら
 はないだろうか。

  西ドイツでは反核平和、反原発、環境保護、人種差別反対の集会の主役は若者である。日本の若
 者の多くは政治や社会に無関心で、私的な遊びや利害にしか夢中になれない。社会正義や理想に
 無気力なことは、エネルギー枯渇のあらわれであり、つねに受身の日本の学生は、意見の無い人間
 としてふしぎがられていた。

             『豊かさの条件』岩波新書 

 

「2」『ワーキングプア』宝島社新書
門倉貴史(かどくらたかし)著

ワーキングプア」とは、汗水たらして一生懸命働いているのに、いつまでたっても生活保護水準の暮ら
 しから脱却できない人たちのことをさす。日本語の直訳では、「働く貧困層」とも呼ばれる。
  この言葉は、1990年代の米国で初めて登場した。資本主義の徹底を是認する米国は、資本主義の
 弊害ともいえる所得格差の拡大を容認する姿勢をとったために、「ワーキングプア」が急増していった
 のだ。日本でも、先の小泉内閣が米国に追随して規制緩和・民営化を進める過程で、所得の二極化が
 進展、「ワーキングプア」が徐々に増えるようになったと考えられる。(中略)働いているのに年間収入が
 200万円に満たない人たちを便宜的に「ワーキングプア」と呼ぶことにしたい。

  日本の最低賃金は、米国など他の先進国と比較しても低い水準となっており、「ワーキングプア」の拡
 大を食い止めるには、「最低賃金」を抜本的に見直す必要があるといえるのではないか。少なくとも時給
 で1000円を超える額を保障しないことには、人々が「ワーキングプア」の状態から脱却することは難しい
 だろう。
                   『派遣のリアル』 宝島社新書


「3」『下流喰い』ちくま新書

須田慎一郎(すだしんいちろう)著

  一般にクレジットや消費者金融などの借金がかさみ、返済困難な状況に陥っている多重債務者の総数は、
  現在、推定で約356万人いると考えられている。
  その多くが債鬼に追われて失踪したり、自殺に追いこまれたり、年利換算で2000パーセントちかい暴利を
  貪るようなヤミ金融の餌食となって、すべてを奪われた挙句、行方知れずになっている。これが日本の、もう
  ひとつの現実なのだ。
   ヤミ金といっても、すべてがヤクザ風の輩が登場してくるとは限らない。多重債務者を食いものにする不良
  弁護士や司法書士(提携弁護士などと呼ばれる)、整理屋の類は後を絶たず、消費者団体やNPO法人(特
  定非営利活動法人)、労働団体、ボランティア団体を偽装し、多重債務者からのコンタクトを待つ業者も多い。
  問題はいくらヤミ金融が摘発されても、実刑判決がくだされる例が稀だという点だ。
  


「4」『格差社会』岩波新書

橘木俊詔(たちばなきとしあき)著

  20世紀の代表的な哲学者の一人に、ロールズがいます。彼は、社会にとって自由は基本的に大切なこと
  だが、「最も不幸な立場にいる人の厚生を上げることを政策の基本とすべし」とも提唱しています。
  これは「ロールズの格差原理」と呼ばれています。

  国民の最低限の生活を保障するはずの最賃法が、機能していないこと、すなわち最低限のレベルが保障さ
  れない生活を強いられている人が存在することを示しています。また、税制に関して言えば、消費税も所得
  分配の不平等化において重要な役割を果たしています。消費税は、基本的には逆進性のある税です。逆進
  性というのは、低所得者の人からたくさん税金を取り、高所得者の人からあまり税金を取らないという方式
  です。累進性とは逆の特色です。
 

 


 

「5」『しのびよる 階級社会』

平凡社新書

林信吾(はやししんご)著

  江戸時代の封建制度のもとで、武士というのは単なる戦闘集団ではなく、官僚であり、知識階級でもあった。
  必然的に、外国人と直接接する日本人と言えば、大半が武士だったことになる。そうしたことから、典型的な
  日本人とはすなわちサムライだということになってしまったのだろう。これは、特殊の一般化というよくある例で、
  外国について語る場合に、特に注意しなければならぬ点である。

   格差が拡大しているだけでなく、その格差が固定化しているのである。
  大企業のサラリーマンの方が職人よりエライ、という差別的な価値観を、子供にまですり込んできた今までの
  日本社会は、間違っていた。しかし、職人の子供は職人になればいいじゃないか、と決めつけるような社会は、
  もっと間違っているように思う
           
『これでもイギリスが好きですか?』平凡社新書

 

   どれほど馬鹿にされても、どれほど辱められても、どれほど踏みつけられても、
   今日もテレビは「ガンバレ・ニッポン」の大音響である。常にスポーツは国威発揚の愛国心と直結している。
  そして福島は忘れられ、沖縄は置き去りにされる。
   たった1%の富裕層のために。
  「ガンバレ・ニッポン」ではなく「コレデイイノカ、ニッポン」ではないのか。

     愛国主義は無頼漢の最後の避難所である。(サミュエル・ジョンソン)




NO 9  謹賀新年

年の初めに読み返す本

ジャン・ジュネ
 誕生  1910年12月19日

死没  1986年4月15日

      職業  泥棒・詩人・男娼

 

 人々が悪とよぶものに向かって、わたしは愛ゆえに、わたしを監獄へと導いた冒険を今日まで続けてきた
 のだった。
 悪に身を捧げた者たちは、たとえ皆が皆美しくはないとしても、男性的美徳は具えている。
 彼らは自ら望んで、あるいは彼らの本性に従ってある出来事を選んだ結果として、曇りない意識を保ちながら、
 そして少しも嘆くこともなく、社会の指弾と排斥を受ける汚辱の境界へ入ってゆくー  愛欲が、真に深い場合、
 人々をそこへ突き堕すものと同様な、この境界へ入ってゆく。 
                                   「泥棒日記」

  の少年には、自己についてのあらゆるものを拒絶するか(だがそんなことが子供にできるはずがない)、
 これをすべて受けいれ、他人が彼を規定するとおりに自己を見たり、感じたりすること―――要するに自己
 であることを他人に学ぶか、この両者いずれかを選ぶしかなかった。
  そして、やがて〈他者〉は彼を泥棒であるといいだす。だからジュネは泥棒になったのである。彼は泥棒を
 生き、泥棒を行為し、泥棒を感じた。ジャン・ジュネは、泥棒という名辞でのみでジャン・ジュネを意識した。
 養父母や村の人が彼をそう呼んだのである。
  孤児の孤独感が泥棒に変わり、泥棒の孤独感が囚人のそれに移り、囚人の孤独感が芸術家のそれに転
 じた―――しかし終始、同一の孤独感である。


             
『ジャン・ジュネの世界』  リチャード・コー(思潮社)
  
  年の初めに何を読むかということは、普段の月のそれとは違う意味を持っている。
 というのは、どの本を選ぶかということは、その年の予告であり、また願望でもあり、それは自己証明に係わる
 ところの精神上の儀式でもあるからだ。
 これは一つの読書観でもある。どの本をどの月に読むのか、季節感を大事にするというのもまた一つの読書の
 形であると思う

 例えば、二月の多喜二、たとえば四月のエリオット、たとえば七月のカミ
、そして八月のフォークナー、あるい
 は晩秋の草田男もしくは芭蕉、あるいは雪の夜のプルースト。
 読書と共にある人生とは、それが求める人生とは、また同時にそれを約束する人生とは「孤独」を楽しむという
 ことである。本は一人の人間のためにしか存在しない。どれほどの発行部数があろうとも、本は一冊の形以外
 のところにはない。また、それを手にして開くのも一人の人間の仕事である。
 この「孤独」は社会からの逃避を意味するものではない。そうではなくて、これは社会に対する精神的参加の形
 式なのだ。何故なら、読書とは、見知らぬ人を通しての自分自身との対話に他ならぬからだ。本を読む間、時間
 は止まっている。
 利休の茶道も、エピクロスの哲学も、ウオルトンの釣魚も、その訓えは一つである。
 「隠れて生きよ」ということである。
  
  さて、新年の一冊は花の都パリの札付きが遺したシャンソンである。
 僕がこの吟遊詩人の名前を知ったのは遥かな昔のことである。
 明治32年東京は浅草に生まれた石川淳が昭和26年の「文学界」12号にこんなこと書いていた。

  「ところで、ここに幼少のみぎりから生粋の浮浪児であり、乞食であり、脱走者であり、男娼であり、泥棒であっ
 たといふめざましい経歴をもつところの一個の人物が今日に生きている。ジャン・ジュネというフランスの作者だよ。
 ひとさまざま、へんなやつが生きてゐやがるね。このひと、自分のかつての生活についてなにをいふかとおもえば、
 金銭なんぞのことはじつに一語をも著さず、ひたすら花を語り愛を語つてゐるよ。この作者の生活記録「泥棒日記
 」という奇妙な文章について、また来月号に気がむいたらばなにか書くかもしれない。ただし、来月号といえば新年
 号すなわち来年のはなしだから、あまり宛にしないで待ってゐて下さい」

  で、昭和24年生まれの僕が夷齋先生のこの大文章を読んだのは髭を剃る為に剃刀というものを使い始めた季
 節のころであった。水の都は浪花の愛と錯乱の日々での思い出である。
 手にした本は『夷齋虚実』、文芸春秋社から昭和51年に発行された随筆集である。
 ちなみに、僕が永井荷風を知ったのもこの本の中の「敗荷落日」によってである。
 思うに、石川淳という文学精神は最後まで晩年というものをもつことがなかった。
 それはともかくとして、もう少しジュネの周辺を歩いてみる。
 和朝の大文学精神の発言を引き取る人といえばやはりこの人しかあるまい。
 ジャン・ポール・サルトル『聖ジュネ  演技者と殉教者』全二巻、これは昭和41年に京都の人文書院から出版された
 ものだ。

  「ジュネにとっても聖なる時間は循環するのである。それは〈永劫回帰〉の時間だ。ジュネという人間は存在し終えた
 のであり、生き終えてしまったのである。彼の宿命を決定した事件についていえば、それはとうの昔に思い出であるこ
 とをやめ、神話の範疇に移ってしまったのである」

 「同性愛はちりじりの形で存在するのだ。それは人間や事物の上に揺曳するいかがわしい気配であり、ふいに開き出
 て眼もくらむばかりの相を見せることもありうる、不安にみちた一種の姿勢であり、内心の不快であり、彼ら自身に逆
 らうような救いは彼らのなかにない、というあいまいだがしかも断えることのない意識である。このような人たちに対し
 てジュネが役立つのだ。彼らはジュネのなかに、彼らが拒否する自己の半身を憎むことができるのである」


  20世紀に書かれた文学の中でもっとも偉大な作品は誰の手によるものなのかといった問いには簡単に答えることは
 できないけれども、人間についての洞察の叙述としてもっとも美しかった本でという問いになれば、迷うことなく僕はジャ
 ン・ジュネと答えるだろう。
 思うに、一千年後にももしも書物というものがまだ存在するとするならば、この作家の遺したものは20世紀に書かれた
 古典と呼ばれるであろう。そしてその場合、ジュネが書いたものが小説であるかどうかは問題ではなくなっているだろう。
 ジュネの独創性は形式を破壊しているし、その想像力は文学の領域には納まりきらない。
  例えば、次のような文章だ。

  えにしだの花は自然界におけるわたしの標章なのだ。わたしは実にそれらを通して、ジル・ド・レーの手にかかって串
 刺しにされ、殺戮され、火刑にされた子供や青年たちの粉々の骨で肥えた、このフランスの土地に根を下ろしているのだ。
  
 最後にもう一冊懐かしい本を開いてみる。

  ジュネは、泥棒と男色と裏切りにその半生を費やし、自らこの三つのものを聖三位一体と称して、自分の送った過去と、
 自分の本能と運命に対するおどろくべき情熱的な自己肯定によって、この小説を書いたのであるが、かくも執拗な悪徳の
 主張は、反対概念としての神をもたない日本人には、歯の立たないところであろう。
  ジュネの描いた悪の悲劇性は、悪のおかれ無限の孤独と自由とから生ずるが、我々の想像しうる限りの悪は、この種
 の孤独とも自由とも無縁なものだからである。
 私はこの世にも崇高で、豪華で、痛切な小説が、全くの偏見なしに読まれることを祈ってやまない。
  「泥棒日記」は一流の小説なのである。    (昭和28年7月)


                  『三島由紀夫文学論集』講談社(昭和45年)


三島由紀夫(本名:ひらおか きみたけ)

1925年(大正14ねん)~1970年(昭和45年)

 私は三島由紀夫は嫌いである。けれどもこの人の書いたものよく読む。不思議なことに処女作『花ざかりの森』から最後
 の『豊饒の海』まで、一冊も残すことなくすべて揃えている。自分でもよく分からないが、確かに私は三島が嫌いなのだが、
 その作品(小説、戯曲、批評、エッセーを問わず)を読み続けることはどうしても止められなかった。理由は簡単だ。読むこ
 とが楽しかったからである。その政治思想はどうでもよかった。第一に、政治思想というには余りにも無邪気なものであった。
 文武両道というのは思想ではなく心得である。しかし、にも係わらずこの人は間違いなく文芸の世界においての天才であっ
 た。この人の美学は古典主義である。だから始めから反時代的であった。その言動は、多分に演劇的なものであったが、
 サービス精神の旺盛な仮面の告白の裏側に本当の三島由紀夫がいたのだろう。『楢山節考』の深沢七郎、『エロ事師た
 ち』の野坂昭如、『家畜人ヤプ―』の沼正三、を発見したのは三島である。また稲垣足穂の『少年愛の美学』を世に広めた
 のも三島である。この批評眼が三島の天才を証明している。天野哲夫は、三島の『英霊の聲』は昭和天皇につきつけた最
 大の抗議の書であったと何処かに書いていた。天野哲夫とは沼正三の本名である。

 1970年の11月25日、三島は市ヶ谷駐屯地で名刀関孫六をもって割腹自殺を遂げた。偉大な、そして滑稽なナルシストで
 あった。



NO 10   2011年2月

オリエンタリズム Orientalism

イギリスはエジプトを知っている。エジプトとはイギリスの知っているエジプトのことである。
簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである。

 

エドワード・W・サイード

1935年11月1日生―2003年9月25日没

パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。

主著『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともに、ポストコロニアル理論を確立した。



 オリエンタリズム: Orientalism)、オリエンタリスム: Orientalisme)は元来、特に美術の世界
 において、
西ヨーロッパにはない異文明の物事・風俗 それらは東洋としてひとまとめにされた)に対して
 抱かれた憧れや好奇心
などの事を意味する。西洋史美術史などの分野では「東方趣味」「東洋志 向」な
 どの訳語が与えられてきた。

  しかしながらパレスチナ出身のアメリカの批評家、エドワード・サイード 1935-2003)の著書『オリエンタリ
 ズム
Orientalism1978)において、今日的で新たな意味がこの言葉に附与された。
後者の概念で使われるときには、翻訳ではそのまま「オリエンタリズム」と表記さ
れることが多い。

オリエンタリズム

学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。
  彼は著書『オリエンタリズム』(1978)において、西洋におけるアジア中東 の誤った、またはロマンチッ
  クに飾り立てられたイメージの長い伝統が、
ヨーロッパアメリカ植民地主義的・帝国主義的な野望の隠
  れた正当化と
して作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論
  を確立した。
   サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。

「ウキペディア」から 

   「41頁」

   つまりオリエンタリズムとは、オリエント的事物を、詮索、研究、判決、訓練、統治の対象として教室、
  法廷、監獄、図鑑のなかに配置するようなオリエント知識のことなのである。

      「99頁」

   かくて我々は最後には類型学というものに行きつくことになるーその類型は現実の特殊性にもとづい
  てはいるが、歴史からは引き離され、したがって手で触れることのできない、本質的なものとして認識さ
  れる。
  この類型学は、「研究対象」の「客体」から、研究主体が超越的であるような別種の存在をつくり出す。
  
      「208頁」

    したがって、オリエンタリズムのなかに現れるオリエントは、西洋の学問、西洋人の意識、さらに時代
   が下がってからは西洋の帝国支配領域、これらのなかにオリエントを引きずり込んだ一連の力の組み
   合わせの総体によって枠付けられた表象の体系なのである。


    例えば、アラビアのT・E・ロレンス大佐

   結論としては、伝説上のロレンスは西洋諸国で、西洋人によってつくり上げられた西洋の英雄であり、
  それは ロレンスのいわゆる英雄談について、ほとんど知ることもなければ接することもなかったアラブ
  の犠牲の上に成り立ったものだというべきだろう。


             『アラブが見たアラビアのロレンス』
                 スレイマン・ムーサ著   牟田口義郎・定森大冶 訳
                            1989年  リブロポート発行  
   そして日本である。

     「世界が日本を相手にしない理由」

   日本が、イラクに対する米国の率いる侵略行為について、事前に知らされていたことは確かであった。
  それ故に、米国が非道な爆弾投下を開始し、侵略の始まった1月17日、海部首相と中山外相はそろって
  米国の率いる侵略行為を正当化し、支持する声明を発表した。声明の中で首相は「日本は、イラクのクウ
  
ート侵攻を終結させ、平和を取り戻すための最後の手段として国連安保理決議678号に従い、多国籍
  軍による武力行使を支持することを固く誓う」と述べた。外相は声明の中で、首相の言葉を繰り返し述べた。
  いったいどうして、憲法で武力行使を放棄している国が、他国による「武力行使を支持する」ことを誓うこと
  ができるのであろうか。それは全く理解できないことである。しかも日本は、1年前の米国のパナマ侵攻に
  も理解を示した国でもあるのだ。

                 『アラブの論理』

        ラシード・M・S・アルリファイ著   イラク共和国駐日特命全権大使

 こうして、オリエントは、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント的専制、オリエント的
 非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化される。オリエント化されたオリエント
 は、同時代の東洋の多様な現実にかかわらず、「後進性、不変性、女性性、受動性、非論理性」という、
 永遠に固定されたアイデンティティが与えられた。首尾一貫した能動的な主体としての西洋は、自ら創り
 だしたオリエントという「他者像」の鏡に映し出された逆像であったのである。

  この「オリエントのオリエント化」は、より一般的には「他者の他者化」といいかえられるだろう。
 ここでいう「他者化」とは、西欧近代の「啓蒙主義的主体」ないし「ブルジョワ的主体」(ブルジョワ階級
 の白人成人男性)が自己の一部に含まれながらも否定的なものとされている行為性や欲望
――怠惰や感情の
 表出、受動性、性的放恣、暴力的行為など
――を、植民地のネイティヴや下層階級、女性、子どもなど、
 絶対的な差異をもつ(つまりおなじ時間もおなじ空間も共有していないとされる)他者へ投影してそれを他
 者の本質とし、自と他を非対称的なカテゴリーとして固定化するということを指している。

        『日常的抵抗論』 小田 亮

1949年(昭和24年)生まれの私にとって、世界を見ることを教えてくれたのはサルトルであり、そこで見たも
 のが間違いでなかったことを確信させてくれたの
はサイードである。


NO 11  2011年3月
「左翼」であるということの意味

いかなる人間でも
生きながら神格化されるには値しない

1964年、ノーベル文学賞を辞退したときの言葉。ジャン=ポール・サルトル
1905・6・21生1980・4・15没

 

『嘔吐』 白井浩司訳人文書院(昭和26年初版発行)

 大阪は南の戎橋筋の横丁に『バンビ』という名のジャズ喫茶があった。
僕はそこでジョン・コルトレーンを聴きながらこの本を読んでいた。そのとき僕は18歳だった、と思う。
もう40年を超える昔のことだ。その当時のことを思い出そうとしても、世相というような意味合いでは何も思
い出すことはない。というより、思い出す能力がないのだ。
世界や社会に対する関心というものがまったく無かったからだ。
唯一の関心事は、自分自身であった。自分が何ものなのかということである。
このことは還暦を過ぎた今にいたってもやはり解からないのだけれども、要するに、 始めも終りもそこにあっ
たものは青春などという言葉とは無縁な一人の愚か者の
彷徨という時間の浪費である。
大阪の夜は長い。頭の悪い不良でも本でも読まなければ耐え切れないほどの長
さだ。そして、暑い。
アントワーヌ・ロカンタン、懐かしい名前だ。
この小説はロカンタンという男の日記という形式をとっている。
その日記は1932年1月29日・月曜日から始まるのだが、その前に「日づけの
ない紙片」というものが付いて
いて、そこにはこんなことが書かれてある。

「奇妙なことに、自分が狂人であると考える気には、まだ一度もならない。決し
てそうでないとさえ考えて
いる。すべてこれらの変化は、対象の変化だと思う。
少なくともそういう確信を持ちたいのだ」

 たぶん、その頃の僕はこの作品を高名なフランス人の書いた小説として読んでいたのではない。おそらく自分
がつけた日記として日々確認していたのだろう。日記の書き出しを読み返してみる。



「なにかが私のうちに起こった。もう疑う余地がない。それはありきたりの確信とか明白な証拠とかいった
もののようにではなく、病気みたいにやって
きたのである。そいつは少しずつ、陰険に私のうちに根を下
ろした。
私は自分がちょっと変で、なんだか居心地が悪いのを感じた。ただそれだけ のことである」

 そして、1月30日・火曜日にはロカンタンはプルーストのようなことを書いて いる。

「いま、私は思い出す。はっきりと思い出す。いつか私が海辺にいて、あの
海辺の小石を手にしていたとき
に感じたことを、それは甘ったるい嘔気(はき
け)のようなものだった。どんなにかそれが不愉快だったろう!
そしてそれは
あの小石が原因だった。私は確信する。それは、手の中の小石から起こったのだ。そうだ、
それだ、たしかにそれだ。手の中にあったいわば嘔気のような
もの」

 小説からの引用はこれで止める。ここから先はこれからサルトルを読む若い人にとっては余計なお世話というも
のだろう。読書についての話である。
すべては個人的な事情である。
悪餓鬼であった私とこの本を結びつけたものは、サルトルが説なえる実
存主義でもなければ文学的嗜好といった
ようなものではない。私が、この本
の中に読んでいたものはその頃の私を取り巻く状況であり、そこにあった気分で
ある。

「嘔吐」と書いてオウトと読むのかムカツキと読むのかは人それぞれとして、近頃、またそれが私の中でぶり返して
きている。
サルトルとは、いったい何だったのか。そして、今なぜサルトルなのか。

 

サルトル「嘔吐」

新訳鈴木道彦さん

孤独は真理に近付く条件

「明快で、音読に堪える訳文を目指した」

 

   プルーストの『失われた時を求めて』の全訳で知られるフランス文学者の鈴木道彦さん(81)が、哲学者J・P・
  サルトル(1905~80年)の小説『』
(人文書院)の新訳を刊行した。白井浩司訳で紹介され60年余り。明快な
  訳
文で「サルトルを復権させたい」と願う。(堀内佑二)
   鈴木さんが邦訳で『嘔吐』を読んだのは学生時代。が、「明快な文章で、隅々まで神経が行き届いている」サル
  トルの真価がわかったのは、パリ留学後、
原書を読めるようになってから。「いつかは自分で新訳を」との願いを
  温めて
きた。
   今回の新訳では、作品解釈の核心にかかわる白井訳からの変更もある。

  例えば、主人公ロカンタンが公園でマロニエの木の根っこを見て、〈存在は必然ではない。存在するとは単に、
  そこにあるということなのだ〉と確信する
場面。
   旧訳では人間のあり方を指す「実存」の訳語が使われていたが、「実存」は一切使わず、すべて「存在」と訳した
  点が注目される。
   プルーストとサルトルは研究の「両輪」と位置づける。『嘔吐』を原書で読んだときから「プルーストを読まずに書
  けたわけがない」と直感していたと
いう。プルーストの小説で使われた小道具の頻出など、影響は至る所に見られ
  る。
   読まれなくなったと言われるサルトルだが、実は「非常に現代的な小説」であるともいう。30歳の独身青年ロカン
  タンや、図書館でABC順に
本を読む「独学者」は、いずれも社会の中で孤立した人間だ。
  「今の引きこもりやニートが持っている孤独と通じるものがある」と指摘する。
   「群れた人間に対して、孤独な人間は自分が生きる理由がどこにあるかもわからずに探っていく。孤独であるこ
  とは、逆に真理に近付くための条件
でもある」54年からの留学中に、アルジェリア戦争が。
  独立運動に賛意を示した数少ない知識人の一人がサルトルだった。
  自身も後に在日朝鮮人と日本人の「民族責任」の問題を考え、事件の裁判支援にかかわったが、それもサルトル
  の影響だ。
   66年にサルトルが来日した際には初めて対面し、交友が始まった。
  仏文学者らをはじめ、新訳を待ちかねていた読者の評価は高く、作家
の大江健三郎さんは「『寝食を忘れて』読み
  ふけった」(『図書』9月号)。

  サルトルのフロベール論『の馬鹿息子』の翻訳完結と『聖ジュネ』の新訳を予定する。
  マラルメ研究で知られた父・鈴木信太郎と一族の歴史も書くつもりだ。
                                              2010921日  読売新聞)



  

古い朝日新聞からの切り抜き

「作家」サルトルの

 

言語表現へ全的信頼

大革命の原理復権図る
平井啓之
(フランス文学者)


   思想家サルトルの最後の言語的営為が〈同胞愛〉を基礎として、人間の本源的生き方としての左翼を原理的に
  賦活するための
努力であった、ということは、その事自体が感動的であるばかりでなく、作家として思想家としての
  サルトルの存在が、人間精神
史の上にいかなる意味をもつものであるかについて、大きな示唆を与えるものである、
  という思いを禁じ難い。

   周知のようにサルトルは小説『嘔吐』に描かれた原体験を『存在と無』(1942年)という雄渾(ゆうこん)な存在論
  的人間論に造
型することによって、自由の哲学者としての地歩を確立した。
      (中略)

   そして更に20年、1980年春に、死を目前にしてのサルトルの努力が、挙げて同胞性を原理とする倫理学の構築
  に賭けられて
いたとすれば、ここに思想家サルトルの全体化の軌跡は、自由ー平等ー同胞愛というフランス革命の
  原理の復権のための、き
わめて個性的、且つ誠実な努力であった、と言いうるのではないか。
   筆者は年来、サルトルの仕事が、その言語的営為の雄大さの点で、18世紀イデオローグ、とりわけルソーの仕事
  を連想さ
せることを思いつづけてきた。ルソーの思想はフランス革命へと大きく花開いたが、「私は未来への希望の
  裡に死ぬであろう」と
言ったサルトルの言葉を如何に意味あらしめるかは、生きているわれわれへの今後の課題で
  あろう。


   もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
   救いがたい理想主義者だといわれるならば
   出来もしないことを考えているといわれるならば
   何千回でも答えよう
   「その通りだ」と。

                チェ・ゲバラ(1928~1967)

                           アルゼンチン生まれのキューバの革命家




NO 12  2011年4

  四月は残酷極まる月だ

「荒地」
THE WASTE LAND

T・S・エリオット

西脇 順三郎訳

 

『世界名詩集4』昭和43年初版発行平凡社

 
  

エリオットの言葉

「詩は教養ある人々を慰めるための一つの遊戯である」

  

1埋葬

 

四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。
冬は人を温かくかくまってくれた。
地面を雪で忘却の中に被い
ひからびた球根で短い生命を養い。
シュタルンベルガー・ゼー湖の向こうから
夏が夕立をつれて急に襲って来た。
僕たちは回廊で雨宿りをして
日が出てから公園に行って
コーヒーを飲んで一時間ほど話した。
「私はロシア人ではありません、リト
アニア出の立派なドイツ人です」

 

 

子供のとき、いとこになる大公の家に滞在っていた頃
大公は私を橇いのせて遊びに出かけたが怖かった。
マリーア、マリーア、しっかりつかまって
と彼は言った。そして滑っておりた。
あの山の中にいるとのんびりした気分になれます。
夜はたいがい本を読み冬になると南へ行きます。


  

トマス・スターンズ・エリオット

  (
: Thomas Stearns Eliot1888年 HYPERLINK
   "http://ja.wikipedia.org/wiki/wiki/9月26日"9月26
- 19651月4)は、
  
イギリス詩人劇作家で文芸批評家である。
  代表作には、5部からなる長
『荒地』(The Waste Land1922)、
   詩劇『
寺院の殺人』(Murder in the Cathedral1935)、詩劇論『詩と劇』
   (Poetry and Drama
1951などがある。
    誕生はアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス。
    ハーバード大学で、アーヴィング・バビットに師事し、卒業後、
    ヨーロッパ各地と米国を往復し、研究活動を行う。
    その後は
ソルボンヌ大学マールブルク大学オックスフォード大学にも通う。
    1927にイギリスに帰化し、イギリス国教会に入信。
    「文学では古典主義、政治では王党派、宗教はアングロ・カトリック」と自身を語っている。
  
     エリオットは「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それ
    は個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する。」と
    書いている。

    1948度のノーベル文学賞を受賞した。

      「ウキペディア」から

西脇順三郎コレクションIII

翻訳詩集 ヂオイス詩集
荒地/四つの四重奏曲(エリオット)
詩集(マラルメ)

新倉俊一(編集) 慶応義塾大学出版会


   

 

   西脇さんの『荒地』

 

毎年四月になるとこの本を開く。

最初に開いた年から数えてもう四十年を数える。ずいぶんと長い付き合いだ。

「四月は残酷極まる月だ」、この断定が圧倒的であり、詩的である。

ここに翻訳者の世界観がある。西脇順三郎である。

おそらく西脇さん以外の人の翻訳であったならばこの詩は僕の人生と係わりを

もつことはなかっただろう。事実、その後エリオットについて書かれた本は何冊

かは読んだけれども、『荒地』以外の作品に深く入っていくというようなことは

起こらなかった。エリオットは僕にはこの一冊で十分である。


さわやかに吹く風は
ふるさとへ
わが愛蘭の子よ
君は何処をさまようや。

美しのテムズよ、静かに流れよ、わが歌の尽くるまで。

僕の持っている本(平凡社版)の巻末には西脇による解説が載っているので、

それも少し読んでみる。

「頁211」

この詩に出ている言葉は、ほとんどある古典(名著の意味)から直接

に引用したり、それをパロディストとして言葉や思想をもじって使った

り、また暗示したりするのである。例えばこの詩の題自身マロリーの

『アーサー王物語』にある言葉である。また第一部の「埋葬」という

題は、英国教会の祈祷書の中にある埋葬式からとったものである。

そういうように、世界の名著の知識がないと面白味が半減する。

この詩はボオドレルの『悪の華』の世界を暗示している。中にも直接

引用しているフランス語がある。

ボオドレルは小説家のレアリストと等しく近代的都会の醜悪を描いて

いる。この『荒地』も都会の醜悪や近代社会の醜悪、人間の醜悪を取

扱っている。
『悪の華』の献文にはゴーチェを出しているが、エリオットの場合は、

ダンテからの言葉を使ってエズラ・パウンドを出している。

西脇順三郎については、いつかまた気力の充実した時に。
それにしてもこの四月はほんとうに残酷極まる月だ。

 

「旅人かえらず」

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない

 
 
 

 

NO 13  2011年5月

アデン・アラビア
ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。


ポール・二ザン
Paul Nizan

1905・2・7~1940・5・23


来世の救済ではなく
地上のパンを求める旗


    

   二度と以前に戻ることのないアンガージュマンの観念ほど、ぼくを強く誘うものはない。
  ぼくらは自分の変節を何かあったとき禁じることのできる束縛を作り出すべきだ。
  『革命』への加担は、いつの日かそれを撤回できるような、期限つきの誓いであってはならない。
  ぼくらが将来忠実でない行為を犯すようなことがあってはならない・・・」

『陰謀』ポール・ニザン

 高円寺や渋谷の若者たちの激情がこの還暦ジジイに若き日の読書を思い出させた。
 五月はポール・ニザンしか考えられない。特別な理由がある訳ではないが、私の「失われた時」の数頁がこの
 古い本の中の何処かで眠っているような気がしたのだ。
  本を開くのはおよそ40年ぶりである。それが私の「見出された時」であるかどうかはこの再読の時間のなか
 でおいおい明らかになってゆくだろう、とも思う。
 大阪の戎橋筋の横丁に「バンビ」という名のジャズ喫茶があったことは前にどこかで書いたと記憶する。
 ニザンを読んだのもやはりその場所であった。ほんとうに気の遠くなるほどの古い昔の思い出だ。

  その時私は17歳だったか、あるいは18歳だったか今ではもうはっきりしないが、いずれにせよ二十歳まで
 にはまだ時間があった。つまり、生意気な食えない小僧であったということだ。
 最初の一冊は、もちろん『アデン・アラビア』(篠田浩一郎訳)である。

 これは晶文社から「ポール・ニザン著作集」(全9巻・別巻2)と題して出版されたものの中の一冊である。
 『番犬たち』、『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、『陰謀 』、『古代の唯物論者たち』、『九月のクロニ
 クル』、『危機の知識人』、『妻への手紙 』の全九巻と別巻が『ポール・ニザンの生涯』、『今日のポール・ニザン』
 の二巻である。

  最近の事情はよく解からないが、その頃、晶文社はセンスの良い本を出していた。
たとえばロープシンの『蒼ざめた馬』や『漆黒の馬』、フランク・コンロイの『彷徨』、オーデンの『第二の世界』、
 ダヴィーの『シモーヌ。ヴェーユの世界』、そればかりでなくクロソウスキーの『わが隣人サド』、アンドレ・ブルトン
 の『秘法17番』、リチャード・ライトの『アンクル・トムの子供たち』、そればかりでなくアナイス・ニンの『未来の小
 説』もあった。
  これらの本はニザンの本と同じように長いあいだ開かれることなく書架の片隅に置き忘れられていたものだ。

 大阪から斜里へと退却し、そして東京から十勝池田へと流れ、最後に札幌に辿り着いたのだが、この北都に来
 てからも旅装を解く間もなく月寒、福住、大曲、発寒、前田と転戦し、最後に力尽きた処が海辺の町星置、これが
 まあ終の棲家か雪五尺か。

 本もまた私と共に流転の歓哀を生きてきたのである。
  ただし、深刻な話ではない。花と酒と詩の聖三位一体の教義が無ければ風狂無頼など犬も食わないお話、ただ
 の度差回りの演歌というものだ。
 まあ、それはともかくとして話を本題に戻す。

  私は少年の頃から今日に至るまで一度も「政治的人間」であったことはない。これは自慢している訳でも卑下し
 ている訳でもない。ただ、事実としてそうだと言っているに過ぎない。
 そういう私がなぜニザンに夢中になったのか、その当時はよく解からなかったし、恥かしい話だが、今もよく解から
 ない。フランス文学の伝統や諸流派についての知識も関心もなかったし、第一に『贋金つくり』の大御所ジッドが嫌
 いであった。
  また、共産主義や社会思想といった分野にいたってはまったく無知であった。そういう訳だから、私は政治的な
 領域からニザンに近づいていったのではない。私がニザンの中に見ていたものはランボーである。それは幻視者
 としてのポール・ニザンである。こうした見方が正しいかどうかは解からないが、まだ二十歳の季節を知らない不良
 少年にとっては精一杯の読み方であった、と思う。
 ニザンの思想を直感的に理解するとすれば、たとえば次のような一節である。

  「しかし、ぼくは農民出身のフランス人だ。ぼくは畑が好きだ。たったひとつの畑しかなくてもいい、それが好きな
 のだ。ただ隣人たちがそこを通ってくれさえすれば、ぼくに残された生涯を、このたったひとつの畑で満足して過ご
 すだろう。ぼくは、放浪者たちの希望のない生活を体験したいとは思わない」

 しかし、人生はニザンの望むようにはならなかった。その答えはニザン自身が漏らしている。
  『アデン・アラビア』の巻頭に書き付けられたカルステン・ニーブールの『アラビア記』からの引用文である。


「安楽な生活や美味な食卓を好む若者たち、でなければ女たちとともに心地よい時を過ごしたい若者たちは、
  アラビアにゆくべきではない」

  ニザンが日本に紹介されたのは昭和10年に翻訳発行された『文化の擁護国際作家会議報告』という本の中で
 のことであって、それは検閲をうけた伏字だらけのものであったらしい。とすると私の青春とは時間的にはかなり
 ずれている。しかし、無知と誤解と幸運に拠ってではあるが、不良の私はニザンを自分の同時代文学として読ん
 でいた。
 アデンとは一つの特定の土地の名前ではない。それは何処にでも見出される或る状況についての記号である。
  そして、付け加えるならば、ポール・ニザンとは私が最初に知った「反抗者」である。

                2011年5月10日
                       風狂散人


ニザンについて盟友サルトルが次のように語っている。


  「彼はコミュニストになり、コミュニストであることを止め、孤独に死んだ、或る窓の傍で、階段の上で。  
  この生涯は、この毅然たる妥協の拒否によって説明される。
  彼は反抗によって革命家になった。
  そして革命家が戦争に譲歩せねばならなくなったとき、彼は過激な自己の青春を再び見出し、反抗者
  として終ったのだ。

  彼の言葉は、若く、きびしい言葉だった。
  これを老いさせてしまったのは、われわれなのだ。」

 

ジャン=ポール・サルトル


あらゆるものに縛られた
哀れ空しい青春よ、
気むずかしさが原因で
僕は一生をふいにした。

 
                ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー


NO 14       2011年6月

余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス
 森林太郎

1862217日(文久2119日)

192279日(大正11年)没

 

鷗外にこの一冊があることを知ったのは私が18歳の秋のことであった。もうずいぶんと昔のことである。
もっとも、その時点で読んだということではない。
ただ鷗外にそういう本があるということを知ったというに
過ぎない。それ以前に読んでいたものといえば、言わずと知れた「安寿は糸を紡ぐ、厨子王は藁を打つ」の
『山椒大夫』である。

 ただし、これは大人が読む文学としてではなく、なにやら可哀想な少年文学としてであって物語そのものは
記憶に残ったけれども鷗外その人について関心を抱くというようなことは起こらなかった。いや、今もあまり関
心はないけれども。正直なところを言えば、私は森鷗外という人物が嫌いである

その理由は私にもよく解らないのだが『渋江抽斎』は40歳の初読の時から今日まで毎年何度か開いている。
ではその他の鷗外の書いたものはと言えば、やはり嫌いである。

どれもこれもつまらない。なかでも『舞姫』はつまらないを通り越して愚劣にして醜悪である。
不思議なものだ、『舞姫』や『うたかたの記』を書いた同じ人が『渋江抽斎』を書けるとは、というより、それを
書かねばならなかった変化と事情が人生の中に起きるとは、しかし作品を支えた思想がどれほど違おうとも
どちらも森鷗外である。
そしてまた、不思議は読み手の人生にも起こる。私が40歳を過ぎて『渋江抽斎』を必要とした変化と事情
がそれである。
本と人との出合いには、それに相応しい時期というか季節という
か、確かにそういうものがあるのだろうと
思う。私がこの本の題名を知
てから実際にそれを手に持って開くまでその間20年という歳月が流 れている。
なぜ、そんなにも長いあいだ鷗外を敬遠したのか、俗事雑
事悪事に追われた人生がよほど忙しかったのか、
それとも色道遍歴
の迷宮で出口を見失ったものか、私はこの本のあることを忘れていた。言わば、その失
われた20年の歳月の中でこの本は幻の名著と
いうべきものであった。
 で、その18歳の秋、どうしてこの一冊のことを知ったかということを
思い出してみる。私がある本の存在を知
るのは、いつも決まって違う
ある本の中でのことである。そして、私にとっての良書とは、その本の内容が優れ
ていると言うことだけではなく、他にも優れた本があること
を教えてくれる、そういう本のことである。
ただし、私がここでいう「優れている」という意味には学問的にとか、
芸術的にとか、文学的にとかいったよう
な価値観は一切含まれては
いない。
 読書は、私にとっては何よりもまず精神の快楽として体験されたの
であり、それ以外の形では私の人生に
は関係も接点もない。
水の都の大阪は心斎橋筋にあったプランタンという名の粋な喫茶
店の奥でのことであった。
恋人との待ち合わせの時間にはまだいくらかの余裕があったので、
他にすることもないので18歳の不良は
先程買ったばかりの本を開い
た。
 石川淳『夷斎虚実』である。当時の私の知力ではとても消化できるような代物ではなかったけれども(今も
あまり変わらないが)、不良少
年の見栄であったか、それとも野生の勘が働いたものかはさておき、 ただ言
えることは、これが私のその後の読書人生に圧倒的な影響を
及ぼす大事件であった。
 文芸春秋社から「人と思想シリーズ」叢書の中の一冊として出版さ
れたその本は随筆集で、その第一章の
表題はずばり「森鷗外」であり、
その章は「渋江抽斎」で始まる。
 私が生まれて初めて読んだ石川淳の文章をここに書き写す。

 「抽斎」と「霞亭」といづれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味な
ことはいはないつもりである。
この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思ってゐるやうなひとびとを、
わたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。
「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬たる駄作である。「百物語」の妙とい
えども、これを捨てて惜しまない。
詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑
談にゆだねよう。


 これを読んだ時点での私は鷗外ばかりでなく、日本の近代文学の
歴史についての知識もまったく持ち合わ
せていなかったばかりでなく、
そもそも無頼派の一人と目されていた石川淳その人に対する知識も情報もな
にもなかった。そこにあったのは夷斎石川淳という人の文章
だけである。
そして、路上の不良である私がそこに読み取ったものは、文章の世界 における「清潔」というものである。
それこそが私が夷斎石川淳から学
んだ文学精神というものだろう。



 作品は校勘学の実演のようでもあり新講談のやうでもあるが、さっ
ぱりおもしろくもないしろもので、作者の
料簡も同様にえたいが知れ
ないと、世評が内内気にしながらも匙を投げてゐたものが、じつは古今一流の大
文章であったとは、文学の高尚なる論理である。


その石川淳が鷗外の人となりについてこうも書くことを忘れていない。

 だが、一たび文学の場を離れて、世間一般に流行をきはめる某某
社会思想に対すると、不思議にも巨人鷗
外はたちまち流俗の小市民
に縮まったやうな観を呈する。みごとな柔軟性はどこやらに喪失されて、いやに硬
くなったように見える。

ことに依ると、社会主義に対するきはめて世間並みの漠然たる恐怖と嫌悪の中に、鷗外もまた身を固くしてゐ
たのかも知れない。
この大教養人は市井の頑童よりも侏儒であったのかも知れない。


 此処から先へ進むと「政治と文学」のお話しになりそうなので、本
題に戻そう。
鷗外の経歴や業績については誰もが多少なりとも知っていることだ
と思うので、ここでは立ち入らないことに
する。問題は、『渋江抽斎』の
意味である。一つは50代半ばの鴎外にとっての弘前医官渋江道純という人物の
持つ意味であり、もうひとつはそれを読む人にとっての「史
伝」という形式の持つ意味である。
加藤周一の『言葉と人間』(朝日新聞社・1977年発行)の中にその
答えの一つが出ている。
「形式の発明または『澁江抽斎』のこと」がそれである。

文芸の新しい形式は、まれにしかつくられない。何故鷗外はそれを
作り得たのか。彼の動機は二つあった。
歴史上の事実に対する興味。

「わたしは史料を調べて見て、其中に窺われる〈自然〉を尊重する念を 発した」(歴史其儘と歴史離れ)というの
がそれである。
またみずから果たさなかった望みを、過去の人物の生涯に投影する必要。「抽斎は嘗てわたし
と同じ道を歩いた人である」(『澁江抽斎』)
という、「景陽の情はわたくしの嘗て霞亭と興に偕にした所である」
(『北条霞亭』)というのは、そのことを指す。また抽斎の第四の妻五百は、鷗外がみずから得なかった理想の
妻の像を反映しているに
ちがいない。
(中略)

 形式とは外在化された精神の構造である。新しい形式は、常に新 しい精神の構造を意味するだろう。故に時
代を反映し、同時に時代
を超える。芸術において餘は些事にすぎない。


 いま一つ加藤周一の本を開く。
『日本文学史序説・下』(筑摩書房・1980年発行)、第九章「第四
の転換期」を読む。

 鷗外が晩年に作った徳川時代の学者の伝記、殊に『渋江抽斎』
(1916)、『伊沢蘭軒』(1916~17)、『北条
霞亭』(1917)の三作
は、その形式がおそらく古今東西に例の少ない独特のものである。
すなわち一方では、伝記作者の資料探索の過程を叙述し、他方では、当該人物の伝記とその周辺を広く描いて、
その二つのすじをな
い交ぜ、交錯させる。
一方は伝記を書く人の現在であり、他方は書かれる人の住んだ過
去の世界に係わるから、現在と過去とを直接
に重ね合わせる形式
であるともいえるだろう。読者は伝記を作る行為のなかへひきこまれると同時に、過去の人
物の生活と行動の世界へ招待される。


 さて、私にとっての渋江抽斎とはなにものであったのか。

今、手許にある『渋江抽斎』(中公文庫)を開いてみる。
「三十七年一瞬の如し。医を学び業を伝えて薄才伸ぶ。栄枯窮達
は天命に任す。安楽を銭に換えて貧を患えず。
これは渋江抽斎の述志の詩である」と鷗外は筆を起こした。

次の頁をめくると「抽斎は金を何に費やしたか。おそらくは書を購うと客を養うとの二つのほかに出でなかっただ
ろう」とある。
さらに進めて頁21、あまりに有名なあの行に出会う。

「抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。はるかにわた
くしに優った済勝の具
を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である」。
さらに進めて頁69、そこにはこんなことがさらりと書かれてある。
「わたくしの敬愛するところの抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、いかなる用事もさしおいて玄関へ見に出
たそうである。これが
風流である。詩的である」と。
ここまで読み進んできたところで40歳を過ぎた私の鷗外に対する見方が変わった。
というよりも、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」の言葉の意味が私なりに見えてきた。
どうやら結論めいたものに辿り着いたようなのでこの辺りで店仕
舞いとしたいところなのだが、事のついでにと言
うわけではない
が気にかかる本がもう一冊ある。
松本清張の『両像・森鷗外』である。
気にかかるところを少し書き写しておく。どのように解釈するかは
人それぞれである。

  鷗外の「渋江抽斎」は、抽斎の子保(たもつ)が鷗外の要請によっ
て書いた「抽斎年譜」「抽斎親戚並門人」「抽
斎没後」の三編に依る、しかしそれはあくまでも素材であって、「渋江抽斎」は鷗外の創作だと人々は思っている。
一般の人々だけでなく鷗外評家も研究者もそう考えている。でな
ければ「古今一流の大文章」(石川淳『森鷗外』)、
「『渋江抽斎』
は鷗外が創造しえたもっとも小説らしい小説」(高橋義孝『森鷗外』)といった評は与えられないからだ。
前掲一戸務「鷗外作『渋江抽斎』の資料」(昭和八年八月「文学」
岩波書店)は、保の作成した資料内容と鷗外「抽
斎」伝とを比較
して、両者の距離にほとんど間然なきを指摘した。


 なにやら話しがややこしくなってきた気配である。

此処から先は責任が持てない。後はご自分で身銭を切って読まれよ。
大知識人森鴎外のもう一つの顔は保身と出世以外のことは考ることができなかった官僚である。つまり俗物とい
うことだ。
鴎外は元老山県有朋の歌会「常盤会」の幹事であった。椿山荘に出入りする幹事とは幇間のことである。
「太鼓持ち」とも言う。

観潮楼主人森鴎外は器用な人であった。


詩人の長田弘の『すべてきみに宛てた手紙』というエッセーに
鷗外の漢詩の味わいについて書かれた一章がある。    

 
蛍(ほたる)飛んで新緑を照らし
鵑(けん)叫んで古竹を裂く
夜長ければ愁へも亦た長く
無聊(ぶれう)にして残燭を剪る


宵闇のなか、飛び交う蛍の光に照らされて、若葉の緑が浮か
び上がり、
ほととぎす(杜鵑)の鳴き声が、年を経た竹を引き裂
かんばかりに鋭く響
きわたる。夜が長いため、悲しみもいつま
でも消えず、やるせない気持ち
で、蝋燭(ろうそく)の芯を切っ
ている。

    真面目に生きることに疲れた若い人へ伝えよう。
『渋江抽斎』、この一冊は読むべし。ここには君のこれからの人生 に役立つことは一行も書かれて
   はいないけれども、それでもきっと
君の中の何かを変えるだろう。その変化とは、君にはまだ探さ
   な
ければならないものがあるということを知るということだ。
   大の鷗外嫌いの私の言葉に嘘はない。

        風狂散人記す。

 


NO 15  2011年7月

異邦人、または本との別れ

  

 

アルベール・カミュ 

 (1913・11・7~1960・1・4)

 
 詩を逃れ、石の平和をふたたび見出すためには、他の砂漠、

 魂もすがるものもない土地が必要である。オランはそうした場

 所の一つである。
エッセー『夏』

 

   そろそろ少年時代も終わりかなと思うある夏のことだ。
なぜかオホーツクの斜里の海辺にいた。そこでカミュの『異邦人』を読んだ。
それは新潮社の文庫本で何をするにしても荷物にならない嵩と重さだった。
どういう場所でどういう本を読むかはほとんど偶然ごとであるけれども、やはり
あの夏あの海辺でカミユを読めたことは間違いなく一つの幸運であったと思う。
と言うのは、もしも雪の降る夜に暖炉の傍らでこの本を開いたとすれば(そんなことは想像
もできないことだが)、果たして最後まで読み通すことが出来た
かどうか疑わしいと思うから
だ。他の作家のことはともかくとして、私にとって
はカミユはそれほどまでに「夏と海の詩人」
であった。その意味は、私はカミュ
を政治的な立場で読んだことがないということだ。
そこで語られたことは最初から地中海を背景にした太陽についての一つの
神話であった。
個人的なことを言えば、その夏を最後にして私の海辺での時代は完全に終わっていた。
それは私が経験した喪失についての最初の記憶である。
後に残ったものは彷徨者の海辺
を懐かしむ感情だけである。
久しぶりに読み返してみようか。

今日、ママが死んだ。それとも昨日か、僕は知らない。養老院から電報が
きた。《ハハウエシ
ス」ソウシキアス」チョウイヲヒョウス》これでは何もわか
らない。たぶん昨日なのだろう。
夏の匂い、好きな街の風物、ある種の夕空、マリーの衣服と笑いなど。
僕がここでしている
無用なことのすべてが、咽喉につきあげてきた。
僕はただひとつ、このお喋りが終わって、自分の独房に戻って眠ることだけが待ち遠しかった。

 今その当時のことを思い出してみると私の周囲ではムルソオさんは大変な有名人であった。
もちろん私の友達の多くは本など読むような人間では
なかったからごく限られた交際範囲の中
でのことではあるが、ムルソオさ
んはどこか実在の人物のようにその季節の中で振舞っていた。
あるいは、
若い読者の精神状況に対してある種の支配力を持っていたと言うべきか。
ムルソオさんについて考えるということは自分の中の異邦人性を知るということである。
異邦人性とは、関係性の断絶ということである。
そういうムルソオさんを創造したカミュは私にとって『異邦人』一冊で終わ
る作家ではなかった。
それは思想の問題ではない。ただ海辺を懐かしむ感情はカミュ以外にそれを癒す方法を持たな
かったということだ。1977年、20代半ばの私
は十勝の池田にいた。そこで私は新潮社から出版
されていたカミュの全
集を買い求めた。それ以後、毎年夏になるとカミュを読んで過ごすことが年中
行事となった。
たとえば『シーシュポスの神話』だ。そこにはこんなことが書かれてある。

 
 精神が生きてゆくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの見定め
がたい感覚とは、いったい、
どのようなものなのか。たとえ理由づけが
まちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみや
すい世界だ。
だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、
失った祖国の想い出や約束の地への希望
が奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい
絶たれている。

人間とその生との、俳優とその舞台との断絶を感じとる、これがまさに、〔なんとも筋道の通らぬ、およ
そ理というものに反したという感覚〕不条
理性の感覚である。

  私は書店へはほとんど行かないし、文芸雑誌や新聞の書評もまった
く読まないのでカミュが今も読
まれているのかどうかは分からない。

もっとも、『異邦人』が刊行されたのは第二次世界大戦のさ中であったことを考えれば1949年生まれ
の私がそれを現代文学として読んだという
ことも不思議な話ではあるけれども。
海辺を懐かしむ感情、そうしたものが無くなった訳ではないのだけれ
ども、58歳の夏を境にしてカミュ
を読むのを止めた。
思えば長いお付き合いであった。まさかこんな別れがこようとは思いもよらなかったが。
エドワード・W・サイードを読んだ後もカミュを読み続けることは私には不可能である。

たとえ一つの神話だとしても。
問題は、その夏と海と太陽が本当は誰のものであったのかということだ。
日帝36年の朝鮮半島支配、そこにも夏と海と太陽があったはずだ。
それは誰のものなのか。
本当のことを言えば、カミユが異邦人であったのは植民地アルジェリアではなく母国フランスにおいてである。
カミユの中にある一個の植民地主義者、私にはこれが許せない。
いや、許せないのは入植者の蛮行の記録に過ぎないものをポエジーだと読み違えた私の愚かさだ。

  『不死の人』を書いたブエノスアイレスの錬金術師ホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉を借りて言えば、ニーチエ
が私の人生に入ってきたのは私が二十歳の時であった。以来、私はニーチエの圧倒的な影響下にあった。その
数年というものは本当に幸せな時代であった。

「人間は深淵に架けられた一条の綱である」の哲学が若い私を意味もなく奮い立たせた。
・・・・・だが、それで世界が変わるのか。
「力への意志」、それは何のために必要なのか。何故、弱くてはいけないのか。
 話を分かり易く言おう。
独りの夜、私に語りかけてくるのはモーツルトである。
私の人生にはワーグナーもベートウベンもいらない。
ピアノ協奏曲第20番ニ短調・K466、この曲を聴いたあと、私はニーチエを読なくなった。すなわちニーチエと
の別れである。

 誰かが言った。「静かなることを学べ」と。
もし、太陽や海や夏についての神話が必要ならば、私はそれを私の手で作らなければならない。
それはおそらくは、「螺旋をえがいて疾走する名づけようのない哀しみ」といったものだろう。
詩が最も音楽に近づいたのはランボーの奇跡である。
アマデウス、神々に愛された男。永遠。

NO 16   2011年8月

    傾奇者 (ダンデイズム)

  隆 慶一郎 1923年(大正12)~

1989年(平成元年) 

    ダンディズムは頽廃の世における英雄らしさの

  最期の輝きであって・・・一個の落日である。

     ボードレール 「現代生活の画家」


 『一夢庵風流記』を書いた隆慶一郎さんに『時代小説の愉しみ』という随筆集があって、その中に
 「赤柄の槍のかぶき者」という一章がある。

  今夜はそこから始めよう。

  傾奇者とは隆さんによれば、

  『かぶき者』は『傾奇者』と書く。芝居の『歌舞伎』という字を当てるのは後代のことで
『傾奇』
  の方が正しいし、その本質を的確に表しているように思われる。つまりは奇に傾く、奇を好み、奇を
  てらうのが『傾奇者』である。

   なぜ奇を好むか。現実にあきたらないからにきまっている。あるいは己の持つ生命力が、卑小なる
  現実を上回るからである。夢が大きすぎ生命力が強すぎるために、さらには生き急ぐために奇をてら
  うことになる。
これは正に青春の特権ではないか。純粋に青春を生きる者ほど、大なり小なり『傾奇
  者』になるのではないか。


   以上のことは隆さんの『傾奇者』についての定義である。そしてまたそのあまりにも短かった小説
  家としての創作活動の中でのおそらくは唯一至高のテーマでもあったのだろう。

  隆さんの本名は池田一郎といい、最初の小説『吉原御免状』(1984年発表)を隆慶一郎という筆名で
  書くまでは脚本家であった。

   脚本家としての仕事には映画では『にあんちゃん』、テレビでは『鬼平犯科帳』などがある。
  隆さんが小説を手がけたのは還暦を過ぎてからのことで、その理由は、師匠であった小林秀雄が存命
  の間はとても怖くて書けなかったそうである。小林秀雄という人の思想については詳しく知るところ
  ではないが、師弟間のこの消息には真実があると思う。隆慶一郎とはそういう人である。

  そういう隆さんが書いたものは時代小説である。
   時代小説というのは、秋山駿さんの評論集『時代小説礼讃』という本によれば、時代小説は、歴史
  小説とは判然と違う。歴史小説は、昔の英雄や合戦のことを、今日の社会でも考えるような現代的知
  性によって解釈するものだ。これに対して、時代小説は正反対のことをする。現代的知性が見捨てた、
  いわば日本人らしい心の領域を掬い上げる。

  この分類法に説得力があるかどうかは私にはなんともいえないが、秋山さんが優れた時代小説の書き
  手として認めているのは坂口安吾、柴田錬三郎であり、五味康祐であり、そして隆慶一郎である。

  それでは秋山さんがそれほど評価しない「歴史小説」とはどういうものなのかということになるのだ
  が、どうもこの分類法では境界線が曖昧である。

  中里介山の『大菩薩峠』、吉川英治の『宮本武蔵』、山岡宗八の『徳川家康』、海音寺潮五郎の『風
  と雲と虹と』や司馬遼太郎の『坂の上の雲』といった作品は時代小説なのか歴史小説なのか、このあ
  たりがよく解らない。

  簡単に言えば、剣に生きる者を描いたものが時代小説で、政治に生きる者を描いたのが歴史小説とい
  うことになるのか、仮にそういうものだとしたら、今度は山本周五郎や石川淳や山田風太郎の位置づ
  けが解らなくなってくる。どうやら出版社の分類法や批評家の整理法というのはあくまでも送り手の
  側の目安であって、受け手、つまりただ純粋に本を読むことだけを愉しみとする一般読者の参考にな
  るものではないようだ。

   現に、この私が隆慶一郎を好む理由も、その小説が「現代的知性が見捨てた、いわば日本人らしい
  心の領域を掬い上げている」と言ったような大袈裟なものではなく、全くその反対の思考と方法論を
  味わうことが出来るからである。

   たとえば、「七道往来人・明智光秀」という文章の中に隆さんはこんなことを書いている。

  「(中略) この旅の中で、十兵衛光秀は実に多くの人々と知り合ったはずである。中世からこの時代
  にかけての日本には、実に多種多様の漂泊者がいた。「七道往来人」「公界人(くかいにん)」「道々
  の輩(ともがら)」などと呼ばれる人々である。彼らはいずれも世間とは縁を切り、あるいは切られる
  ことに
よっていわゆる「無縁」になった人々である。
  「無縁」とは親兄弟・親戚・友人等と一切関係を絶った連中であり、己一人の才覚か芸しか頼むものを
  持たない純粋に自由の徒である。この人々の持つ、底なしの自由への憧れは、当然、天下を己の権力下
  に置くことを目ざした武将たちの理想と激突し、一向一揆など果てしない戦いに進展してゆく。

  彼ら自由の徒と深くなじみ、しかも武将たることを望んだ十兵衛光秀の精神の風景はどんなものだった
  のだろうか。そしてこの二つの思想の激突のはざまに生きた男にとって、教養とはなんだったのだろう
  か。断じて下手くそな和歌や宮中の儀式ではなかったはずである」


   私が隆さんの小説を好む理由はそれが時代小説であるからではなく、そこに描かれている男や女が
  一際美しいからである。たとえば前田慶次郎利益であり、水野十郎左衛門成貞といった男たちである。

  そこで得られる愉しみはセルバンテスを読む時に感じるものと同質のものである。私がそこに読みと
  るものは反・時代的人間のもつ哀愁である。

   さて、そこでだ。読者にとって小説を分類する方法などというものはないということになる。
   あるのは、それが文学であるかどうかということだけである。従って、あえて分類するとなれば時代小
  説と歴史小説ということではなく、文学と講談ということであろう。もちろん文学とは虚構の世界であ
  る。

   しかしだ、虚構と捏造は違う。問題は、歴史に向き合う態度であり、想像力の質の違いである。
  最期に、還暦ジジイの余計な親切をひとつ。
  文学と講談をどうやって見分けるかだが、いたって簡単である。書斎であれ公園であれ電車の中であれ
  場所はどこでも構わない、その本を読むことで自分が未知の世界への入り口に立っていると実感できる
  読み物が文学である。そして、それは必ずしも小説・詩歌であるとは限らない。

  それでは講談とは何か言うことになるが、これについては特に考えるまでもない。天下のNHKが放映し
  ている番組がすべてそれである。たとえば司馬遼太郎、お分かりになりましたか、そこのお若いの・・・。

   
    そんな訳で、この風狂無頼は今日も、かぶいて候う。




NO17   2011年9月

 
    

 ハナハダキドッテイル、

または復興期の精神

生涯を賭けて、ただひとつの歌を

それは、はたして愚劣なことであろうか。 

花田清輝
1909
年(明治42329日―1974年(昭和49923


 

「忘れられた本」


  ある日の夕暮れ時、女三人(神さんと娘二人)を引き連れて近くのスーパー・マーケット
 へ出かけた。
その日の夕食の材料を仕入れるための、と言うより父親の権威を示す恒例の
 お買い物ブギである。

  趣味といえるものなのかどうかはともかくとして、料理は釣りとともに大好きなことなの
 で、こうした時間はいつも機嫌がよい。あるいは、機嫌のよい時にはこうしたことを試みる
 というべきか。

 我が家では父親の造る料理は高級料理である、いや、そういうことになっている。食材やレ
 シピのことではない。ただ空腹を満たすための食品ならばそこらあたりのコンビニや総菜屋
 さんのパック物でも間に合うが、食事のスパイスとして会話が絶対に欠かせないというよう
 な幸せな日にはやはり家長自らが包丁をもって厨房の人とならなければならない、と私は思
 う。

 『火宅の人』を書いた檀一雄は大変な料理好きで、包丁を何十本も持っていたそうだ。また
 大変な食通でもありその方面に関しては優れたエッセーを何冊か残していて、妙な褒め方に
 なるが、それは本業の小説よりは後の世に残るものだと思われる。ただし、檀さんの友人の
 証言によると、檀さんの造る料理はそれほど美味しくはなかったそうだ。これは人の努力と
 か楽しみとか、またサービス精神の何たるかを理解できない者の言葉であって、そういう意
 味では檀さんは友人を見る目はなかったようだ。

 『わが百味真髄』というエッセーの中に「太宰治に喰わせたかった梅雨の味」という一文が
 あるが、これなぞを読むと檀さんがほんとうに心の優しかった友情に厚い人間であることが
 解る。私は元来私小説というものを好まないので、その文学的価値というのもよく理解でき
 ないが、正直なところ『火宅の人』もあまり面白くはなかった。

  私見を言えば、小説に限らず求道者の「信仰告白」と成功者の「自叙伝」ほど読んでつまら
 ないものはない。前者の甘えと後者の自惚れに共通しているのは他者の不幸についての無感
 覚性である。

  まあ、そんなことはどうでもいいか。
 そのスーパー・マーケットのあるところは複合ビルというのか、他に理髪店、靴屋、衣料品
 店、食堂、薬局、本のリサイクル・ショップ、花屋、と色々な業種が店を開いていてその利
 便性が受けてかいつもなかなか繁盛している。買い物が一通り終わったところでいつものよ
 うに本のリサイクル・ショップを覗いた。

 00円均一の棚の片隅になんとあの花田清輝を発見した。
 本は『乱世今昔談』、昭和45年に講談社から680円の定価で発行されたものだ。驚いた。嬉
 しかった。悲しかった。そして腹が立った。

 何故だ。どうして花田清輝がこんなところにあるのだ。どういう事情があったかは知らない
 けれどもこの本をこんなところへ手放した人に、またこの本にこんな価格をつけたリサイク
 ル・ショップのシステムについて腹が立った。

 私は愛書家というような人間ではないが、本(書物の名に値するもの)の運命については冗
 談事とは考えることの出来ない人間の一人である。

 花田清輝のこの一冊が此処に陳列された理由は一つしかない。それは著者の名前や書かれて
 ある内容とはまったく関係なく、ただこの本が汚れていないということだけである。それが
 唯一の商品価値である。

 つまり、照明の明るく店員さんの異常に元気なこうした店舗が扱っている商品は、実は本の
 形はしているけれども本ではないということだ。それは新着情報満載の紙の束というもので
 ある。早い話が雑紙である。

 生鮮食品流通業の鮮度管理の手法を取り入れたこの業態には始めから「書物への愛」などと
 いうロマンチズムはなかったのである。生産地と生産者または加工業者の表示と商品が無傷
 であることが原則であって、商品の持つ栄養度や味覚度などというものは小学校給食の栄養
 士さんの仕事として切り捨てたものである。

 大事なことは仕入れた商品が棚の上で休んでいる時間の短縮である。つまりは回転率の世界
 である。


  『乱世今昔談』、その155頁。

  売れた本が、かならずしも幸運とはかぎらない。長いあいだ、ほったかされて、ほこりま
 みれになったまま、火や水や紙魚の犠牲になって、むなしく滅亡いていく本もある。いや、
 読まれた本もまた、かならずしも幸運な本とはかぎらない。一時は手あかのつくほど読まれ
 たにしても、シーズンがすぎれば、きれいさっぱり、忘れられてしまう本もある。どちらが
 不幸であるか、誰が知ろう。

  マリー・ローランサンはいった。「死んだ女よりも、もっと哀れなのは、忘れられた女で
 す。」と。古本屋の店頭には、そんな「もっと哀れな」本が、目白押しに並んでいる。


 
 花田清輝は忘れられた思想家なのか。確かにこの数年、いやこの数十年、花田の名前を聞く
 ことはなかったし、花田について書かれた文章を読むこともなかった。しかし、これは花田
 に限らず、その他の多くの作家や本についても思うことではあるが、日本人の本の読み方と
 いうか、本との付き合い方というか、時々疑問に思うことがある。確かに、本もまた商品で
 はあるけれども、はたしてそれだけのことなのだろうか。

  先に、私は本のリサイクル・ショップの商法には書物への愛などというものはないと言った
 が、では昔ながらのあの陰気な妙に黴臭い街の古本屋さんの場合はどうなのだろうか。そこ
 には反俗の職業倫理とか「知への愛」とかいったある種の聖域の価値観といったものがある
 のだろうか。このあたりの事情についても花田は書いている。

 『箱の話』(潮出版社・昭和49年発行)、その136頁、題して「我利我利亡者」。

  先日、古書即売展へ行ってみたら、小林多喜二の小説の初版本が数百円、三島由紀夫や安部
 公房の小説の初版本が数万円だったのにはおどろいた。これでは小生のようなプロレタリア文
 学嫌いの戦後文学好きも、このさい、多喜二や百合子を買って、由紀夫や公房を売りたくなる
 ヨ。そこで、じっさい手持ちの戦後文学の本を、ことごとく売りはらってみたが、古本屋の買
 い値がプロレタリア文学の売り値なみだったのには、もう一度、おどろいた。日本の古本屋は、
 少々、儲けすぎているのではないだろうか。

  あらためて小生は、日本の古本屋というものを、エコノミック・アニマルのなかでも、いちば
 ん、下等動物であるとおもわないわけにはいかなかった。

 そこへいくと、まだしもヨーロッパの古本屋のほうが、良心的であって、営利精神と共に、ちゃ
 んと職分精神をもっている。プロとしての見識をもっているのだ。(中略)要するに、日本の
 古本屋は本の値打ちがわからないのである。(
1973116日)。


  人間、長く生きていれば好むと好まざるに関わらず色々なことが起こる。
 花田の人生をざっと眺めてみても、それが正しかったか誤りであったかはともかくとして、学内
 反乱、右翼との関係、共産党との対立、吉本隆明との論争、毛沢東支持、とまさに波乱万丈の生
 きた、愛した、書いたの一代記である。

  で、この複雑怪奇の人生をどう読み取ればよいのか。先ずは、ご本人の語るところを聴くのが
 礼儀と言うものであろう。もちろん、この稀代のダンデイが己自身について語るなどという不粋
 なことをするわけもないのだが、案ずるには及ばない、そこは千年に一人のレトリシヤンのこと
 である。いかようにも読める置手紙だけはちゃんと遺してある。

 花田清輝『もう一つの修羅』(筑摩書房・1961年発行)、その第一章「慷慨談の流行」。

 『痩我慢の説』に関する読後感を福沢諭吉に求められ、勝海舟は、「行蔵(こうぞう)は我に存
 す。毀誉は他人の主張。我に与からず我に関せずと存候」と書いた。

 中略)おそらく勝海舟は、かれと榎本武揚とが対立的な立場に立って、東奔西走していたかんじん
 のときには、どこか片隅にひっこんで洞が峠をきめこんだいたくせに、いまごろになって、熱に
 うかされたように、痩我慢の必要を
説く福沢諭吉に、最初は当惑のようなものを感じたであろう。
 そして、やがてその当惑は、ひややかな侮蔑に変わっていったにちがいない。

(中略)『海舟座談』のなかでは、福沢諭吉を御存知ですか、という問いに答えて、「諭吉カエ。
 エエ、十年程前に来たきり、来ません。大家になってしまいましたからね。相場などをして、金
 をもうけることがすきで、いつでもそういうことをする男サ」と軽くカタづけている。

(中略)かれは、藩閥政府からは敬遠されて、氷川で清話を説く一老人として余生をおくらねばな
 らなかった。



 「行蔵」とは国語辞典(小学館)によれば、世間で活躍することと、世間からかくれること。出
 処進退のこと。

 花田清輝の人となりについてはその同時代人の証言を一つ挙げておく。偉大なる浪漫的放浪者坂
 口安吾の花田清輝評である。

 

 

花田清輝論

坂口安吾

 花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らな
  かつたからである。知らないのは無理がないので、花田清輝が物を書いてゐた頃は彼等はみんな戦争に行
  つてゐたのだから。
   私は雑誌はめつたに読まない性分だから、新人などに就て何も知らず差出口のできないのが当然なのだが、
  戦争中「現代文学」といふ同人雑誌に加はつていたので、平野謙、佐々木基一、荒正人、本多秋五などとい
  ふ評論家を知つてゐた。
  みんな同人だつたからだ。さもなければこれら新鋭評論家に就て、その仕事に就て、概ね無智の筈であつた。
  福田恆存などといふ(すぐ)れた評論家に就ても一ヶ月前までは名前すら知らなかつた。たまたま、某雑誌
  の編輯者が彼の原稿を持つてきて、僕にこの原稿の反駁を書けといふ。読んでみると僕を無茶苦茶にヤッツ
  ケてゐる文章なのだ。けれども、腹が立たなかつた。論者の生き方に筋が通つてゐるのだから。それに僕は
  人にヤッツケられて腹を立てることは少い。編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書
  くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。
  僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。
   花田清輝は「現代文学」の同人ではないが、時々書いてゐた。(いず)れも立派な仕事であつた。
  小説家には太宰治といふ才人があるが、いはば花田清輝は評論家のさういうタイプで、ダンディで才人だ。
  小説だと、まだ読者には分るけれども、評論となると却々(なかなか)分らないもので、たとへばポオの「ユウレカ」
  が日本に現れても、読者の大部分は相手にしないに相違ない。花田清輝はさういふ評論家です。
  今度我観社といふところから「復興期の精神」といふ本をだした。マジメで意気で、類の少い名著なのだが、僕は
  然し、読者の多くは、ここに花田清輝のファンタジイを見るのみで、彼の傑れた生き方を見落してしまふのではな
  いかと怖れる。彼の思想が、その誠実な生き方に裏書きされてゐることを読み落すのではないかと想像する。
  この著作には「ユウレカ」と同じく見落され、片隅でしか生息し得ない傑作の孤独性を持つてゐる。だから、花田
  清輝の真価を見たいと思つたら、もつと俗悪な仕事をさせてみることだ。つまり、文芸時評とか、谷崎潤一郎論
  だとか、さういふ愚にもつかない仕事をやらせてみると分る。
   彼は戦争中、右翼の暴力団に襲撃されてノビたことがあつた筈だ。
  戦争中、影山某、三浦某と云つて、根は暴力団の親分だが、自分で小説を書き始めて、作家の言論に暴力を以
  て圧迫を加へた。文学者の戦犯とは、この連中以外には有り得ない。
  花田清輝はこの連中の作品に遠慮なく批評を加へて、襲撃されて、ノビたのである。このノビた記録を「現代文
  学」へ書いたものは抱腹絶倒の名文章で、たとへばKなどといふ評論家が影山に叱られてペコ/\と言訳の文
  章を「文学界」だかに書いてゐたのに比べると、先づ第一に思想自体を生きてゐる作家精神の位が違ふ。
  その次に教養が高すぎ、又その上に困つたことに、文章が巧ますぎる。つまり俗に通じる世界が稀薄なのである。
  だが、これからは日本も変る。ケチな日本精神でなしに、世界の中の日本に生れ育つには、花田清輝などが埋
  もれてゐるやうでは話にならない。

     底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年522日初版第1刷発行


 

 さすがに無頼の大将だね。坂口安吾は花田の文学精神の本質を精確にとらえているね。
 安吾の魂が共鳴したのはロマンチック・エクサイルというものである。安吾と花田の間に
 武林夢想庵をおくと一つの風景が見えてくる。それは
花田の一面でしかないけれども、
 この一面は軽く見逃せるようなものではない。

 
 ロマンチック・エクサイルとは、個の確立のことである。個の確立に至る過程のことで
 ある。ここから『北回帰線』のヘンリー・ミラーまではそう遠くはない。それは、自由へ
 の渇望を生き抜くということである。

  花田清輝の本業が小説家であったのか評論家であったのか新聞記者であったのか、ある
 いは他の何かであったのか私は詳しくは知らない。だからその本を政治的に読むことはな
 かったし、また文学的に読むこともなかった。

  私にとって、花田は最初から左翼的教条とも右翼的妄想とも無縁の蒼空の高みで歌を歌っ
 ている牧人のような存在だった。私は、花田の何を読んでいたか。当たり前の話だが、私
 が一心不乱に読んでいたのはその文章である。

 本を読むことと文章を読むことが必ずしも同じ行為であるとは限らない。しかし、文章を
 読まなければ本を読んだということにはならないのだから不思議である。

   
思うに、本の価値は、そこに何が書かれてあるかということであるが、つまり内容という
 ことだが、実は、それ以上にいかなる立場でどのように書かれているかということではな
 いだろうか。

   
一般に、文章の世界とは様式美の技術論に係わるものであると思われがちであるが、事実
 、寺子屋から現代の綴り方教室やカルチャー・サークルまで文章というものは学んで習得す
 る技術として認知され、また通用してきたので
ある。母国語を学ぶという点では、この考え
 は別に誤りとは思わないけれども、そうして習得された言葉に対する知識や文章技術といっ
 たものはいったい誰の所有物なのだろうか。どのような目的のためであれ、文章を書くのは
 一
個人である。したがって、文章とは先ず個人の所有物である。そして、経験の教えるとこ
 ろを言えば、優れた文章ほどその所有権を強烈に打ち出してくる。そこには個人の仕事であ
 ることを証明するところの刻印が深く打ち込まれて
いる。
 
 文学に限らず、歴史であれ哲学であれ科学であれ独自のある思想を表現するためにはそれ以
 外では絶対に不可能であるという形式が発明される。これを文体というか。読書とは、その
 文体に対する愛着と信頼をもって一個人が他
の一個人と親しく語り合うという行為である、
 と私は思う。花田清輝は私にそういうことを考えさせてくれた人である。

   
私は決して読書家ではないし蔵書家でもない、ましてや愛書家などではさらさらない。けれ
 ども幸か不幸かは知らないけれども長く生きてきた。そして、何事にせよ物事にひたすらに
 打ち込むというような人間ではなかったので常に時間が余っていた。加えて趣味やら道楽と
 いうものも特に持たなかったので、そんな時は本を読むか、酒を飲んで過ごしていた。私の
 読書というのはそんな無頼の日々の暇つぶしでしかなかった。したがって、極めて不真面目
 なものであったし、その読書量もたかだか知れたものだ。それで、確かに本を読んだと記憶
 するのは恥ずかしい話が数えて右手の指五本で足りる。

 石川淳、林達夫、加藤周一、西脇順三郎、そして花田清輝だ。いや、あと一人いる。この国が
 アメリカの植民地であることを決定的な文学体験として教えてくれた作家として大江健三郎が
 いる。

  
以上に上げた人たちが本業としたところは詩学、哲学、小説、随筆、評論、エッセー、その他
 とそれぞれ異なり、その立場も同一のものではないし、主義や思想も共通するものではないだ
 ろう。ただ、私がこれらの人たちの本を読んだと実感するのは、そこに確かな「文体」があっ
 たからだ。「文体」とは単なる文章のスタイルのことではない。

 
「文体」とは個人の思想が言葉を材料にして構築した建築物のことだ。そして、それこそが書物
 の名に値する一冊の本である。

   
第一級の美学者であった澁澤龍彦に「花田清輝頌」という名文がある。それを少し読んでみる。

  その文章を一目見ただけで、それを書いた作者が誰であるか、たちどころに判別がつくとい
 ったような、自分の身についた思考の型(これがつまりスタイルというものだろう)を堅持し
 ている作家が、近頃では極端に少なくなり、
ざっと見渡したところ、昭和十年代作家と呼ばれ
 る七十歳の石川淳と、第一次戦後派と呼ばれる六十歳の花田清輝の、二人ぐらいになってしま
 ったのではないかと考えていたのに、昨今、その一方の雄たる花田清輝の訃報に接して、暗然
 たる思いにならざるを得なかった。同じ痛恨の思いを噛みしめているひとは、おそらく私ばか
 りではないと思う。

  花田清輝は、徹頭徹尾、ペンとともに思考するタイプの作家であった。頭で考えてことを、
 ただペンがそのままなぞるというのではなく、あるいはまた、ペンだけが先走りして、頭の中身
 をどこかへ置いてきぼりにしてしまうというのでもなく、ペンと思考とが同じ速度で、紙の上に
 正確な軌跡を描きながら、精神の運動をダイナミックに定着してゆくのである。彫刻家が手で粘
 土を造形するように、画家が絵筆で一本の線に語らしめるように、花田清輝はペンの運動に思想
 のすべてを託した。思想と芸とを完全に一致させた。そうして自分の肉身は消去してしまったの
 である。もって範とすべき態度であろう。


   10
月に入ってからなぜか毎朝毎夜、花田清輝を読んでいる。これはこの秋の予定にはなかった
 ことだ。
なぜこんなことになったのか。我ながらよくわからない。私が花田清輝の本を最初に読
 んだのは
22歳の時で、処は十勝の国は池田町であった。本は『復興期の精神』(講談社版・1966
 年発行)。なぜそんなことが断定できるかという
と、その本の中表紙に大文字の「雪人」という
 蔵書印が押してあるからだ。懐かしい思い出だ。

  その蔵書印は帯広の印章屋が作ってくれたもので、あまりセンスのよいものではなく子供のゴム
 印に毛の生えたような安物だったけれども、自分だけの本を持つことの屋根裏部屋の秘密の歓び
 というか、そんなものを実感させてはくれた。もっとも、その頃私が持っていた本の数というの
 が不精にも枕元に投げ散らかした十冊程度のもので、他に飾る場所もなかったということもある
 が、笑い話ではないけれどもどれもこれも、まあ、文字通りの枕頭の書ではあった。要するに、
 蔵書印などを必要とする読書人の優雅な生活と呼べるようなものではなかったということだ。

  私は幼いころから勉強が大嫌いであったが、なぜか文房具には異常に執着する癖があって、それ
 は
60歳を過ぎた今も克服できてはいない。
 思い出せば、そういう私を父親は玩物喪志とかなにやら難しい言葉を使って見放し、母親は江戸の
 言葉で「馬鹿な子供ほど文房具には凝るものだネ」と、やっぱり見放した。これが私の育った家の
 教育の基本方針、すなわち自由
放任というやつである。親があっても子は育つのである。
 
 まあ、それはともかくとして、なぜ花田清輝だったのかということだ。
 なに、答えは簡単だ。小林秀雄ではなぜか腹が立つし、唐木順三ではどうしてか眠くたくなるし、
 亀井勝一郎では酒の酔いが醒めるし、吉本隆明にいたっては論外である。

 
 花田の文章は人を教育するような性質のものではない。その文章は、読む者に己の頭で考えるこ
 とを促すだけの親切というか役割というか、そこに徹している。だから私は花田を必要とするので
 ある。若き日も、今も。

  花田が小説家であったか評論家であったか新聞記者であったか、あるいはその他のなにものであ
 ったかは今も私にはよく解らないけれども、これだけは断言できる。

 花田清輝とは、なによりも先ず一個のダンディだった。私には、それで十分である。では、ご本人
 は自身をどう思っていたのか。最後に花田の声を聴く。


 
  わたしは文学者と呼ばれることに違和感をもつ。学者と混同されては、お互いに迷惑である。
 同様に、文士という言葉もまた、士魂文才だかなんだか知らないが、サムライのしっぽをくっけて
 いるところが、気にくわない。文士にくらべると、文人のほうが、まだマシであるが、これまた、
 そのすぐあとに墨客というい言葉の続きそうなけはいがあって、いただけない。わたしは、墨や毛
 筆とは、まったく縁のない生活をしているのである。おもうに、東洋の文人は、魯迅あたりで打ち
 どめになったのではなかろうか。

 どうやらわたしは、芸術家の一種らしいが、わたしのばあい、それは、いくらかアンマに似ている。
 「アンマ上下十六文」のあのアンマである。なぜなら、一方は精神の―――他方は肉体のしこりを
 揉みほぐし、たとえ一時的にせよ、人びとをたのしませたいとねがっているからである。
 



 

NO18     2011年11月

    

カザノヴァ回想録
 
もし汝が、書かれるに値するものを書かないならば、
せめて読まれるに値するものを書け。


      「その1」

 
 すべて本というものには、それを読むのに相応しい年齢というものがあるように思う。と言うより、
 ある年齢に達しなければ理解できないと言うべきか。ものごとについてのある程度の経験がなけ
 ればそれを味わうことができない、というような本があると言うことだ。回想録などというものもそう
 いう本であると思う。
  しかし、常識的に考えてみても、60、70歳を過ぎた男が過去を振り返って書いた懺悔録や自慢
 話や弁解論をこれから世に出ようとする野心満々の若造が読んでも面白いものでもないし、時間潰
 しにもならないだろう。ましてやそれが当代の先行者のもではなく大昔の人の書いたものとなればこ
 れからの処世においての人生論的な参考になるわけでもなく、今を生きることに忙しい人にはあまり
 現実的な読書とはならないだろう。

  もっとも、現実的な読書というものが本の世界で成立するとも思えないが、本から何を学ぶのか、
 あるいは本と人生との関係は人それぞれのお家の事情でもあるから、このあたりの消息には私が
 口を挟むところではないか。
  
回想録というのは、政治家のものであれ実業家のものであれ文学者のものであれ、一般に功なり
 名を遂げた人の、あるいはその逆の人のものであっても、それを書かせた情熱の源泉の多くは自己
 愛(ナルシズム)である。
 つまり、他者の不在が書き手の自由を保証しているのである。時には、死人に口なしという場合もある。
 
政治家の書くものは中曽根康弘をはじめとして特にこの傾向が強い。また実業家の書くものは松下幸
 之助をはじめとして己の思想の貧しさを道徳的価値観で粉飾することが多い。では文学者はというと、
 伊藤整をはじめとしてつまらぬ個人史を歴史の中で党派的に拡大解釈して正当化するものが多い。
 だから、回想録の類には面白いものがない。
 したがって、私は誰の書いたものであれ回想録というものは読まない。
 ただ、例外が一つだけあった。それは色事師の書いたものである。
 その色事師の名は、ジャコモ・カザノヴァ・ド・サンガール、1725年4月2日ヴェネチア生まれで没年
 は1798年6月4日、18世紀はロココの夜の哲学者である。
 本は窪田般彌の訳によるもので全12巻、1973年に河出書房新社から発行されたものだ。
 生まれつき「集中」と「持続」というものを知らない私のような人間がなぜ全12巻もの本を買ったのか
 今となってはよく解らないのだけれども、その当時、街の本屋では硬派向けには吉本隆明と高橋和巳
 が、軟派向けには村上龍と庄司薫がいつも用意されていたように記憶するが、私は今も昔も「現代文
 学」というものに興味がなく、毎日、越地吹雪の「ろくでなし」を聴きながら夜の新宿をさ迷い続け、この
 色事師の言った、「わたしは狂おしいほど女を愛してきた。しかし、つねに女たちより自由を愛してきた」
 という言葉の意味を考えていた。もちろん、こんなことは嘘だ。私はただ単に好みとして、教祖の文学も
 マザコン物語も受け付けなかっただけで、カザノヴァがなければまた違ったカザノヴァを見つけていただ
 ろう。とは言え、この『我が生涯の物語』は、その第一巻「初恋」からして圧倒的であった。
 その最初の頁の下段に「人間は自由である。もし自分の自由を信じなければ、人間は自由ではなくな
 る」と書いてある。この本は、やはり読まれるに値する本であったことは間違いない。18世紀のヨーロッ
 パが発見したものは、人間の自由というものである。
 
 カザノヴァはモーツ
ルトの同時代人である。この二人を結びつけているものは解放の哲学(神学では
 ない)としてのエロティズムであり、この思想をシュテファン・ツバイクは「ホモ・エロティクス」と言い、モー
 ツ
ルトの発見者であるスタンダールは「カザノヴァは感性を代表し、ドン・ジョバンニは知性を代表する」
 と言った。
 そして、この二人は実人生においては何処に埋葬されたのかも解らない見事な敗北者であった。
 
 もうすぐまた冬がやって来る。
 おめおめと、だらだらと、ながながと、生き恥晒して62年、いまこそ暖炉のかたわらで子猫でも膝の上に
 抱きながらグルニエのように心静かにこの『我が生涯の物語』を読みかえす時ではないだろうか。もっとも、
 我が家には子猫はいないのだけれども。
  
カザノヴァは言う。
 「それが立派なものであろうと、恥ずべきものであろうと、わたしの一生はわたしに与えられたものであり、
 わたしに与えられたものはわたしの一生なのである」
 そして、さらにこう付け加える。
 「精神が話しかけるのは精神にであって、耳にではない」と。

     「その 2」

 
 「カサノヴァは齢53を数えても、なお急かれるように世界のここかしこを駆けめぐっていたが、それはもは
 や若さゆえの冒険心からではなく、忍び寄る老いの不安に駆られてのものであった。そのころ彼は、故郷
 ヴェネツ
アに寄せる望郷の思いが切に募るのを覚え、さながら死にゆく鳥が、空の高みからゆっくり円を
 描きながら大地に舞い下りてくるように、次第しだいに、旅の輪をせばめつつ故郷の都に近づいていた。」
 以上は、『輪舞』を書いたウイーン人アルト
ール・シュニッツラー(1862~1931)の小説『カサノヴァの
 帰還』の書き出しの文章である。
 この小説の中に出てくるカサノヴァは、我々が知っているあの伝説的な冒険者ではなく、すでに自分の時代
 が終わったことを知った失意と敗北の人であるが、もっとも、それがどれほど華麗なものであったとしても色
 事師としての黄金時代だけの人生ならばこの男が歴史に名を残すことはなかったのではないか、それにして
 も53歳程度で老いの不安というのも少しばかり気の早い話だとも思うが、実際、この色事師の全盛期という
 のはそれほど長いものではなかったし、むしろ、その後に来る凋落の地獄巡りの暗黒時代とも言うべき後半
 生の方が時間的にも長く、当人にとっては耐え難いほどの苦痛と恥辱の連続であったとしても、いささか逆説
 的ではあるけれども、その孤独は豊饒の何たるかを後世に伝え遺すものであった、と私は思う。
  
ツヴァイクは「男たるもの、ゲーテ、ミケランジェロ、もしくはバルザックなどよりも、カサノヴァになりたいもの
 だ」と言ったけれども、こうした男根信仰では神話の全体像は見えてはこないだろう。ほんとうのことを言えば、
 その前半生のいたるところに氾濫するアバンチュールなどというものは子ども火遊びのようなもので、そこに
 は見るべきものなどなにもありはしないのだ。閨房術、武勇伝、自由哲学、脱走劇、どれもこれもエピソードに
 過ぎないし、この程度のことならばなにもカサノヴァ一人の専売特許ではなく、この時代の冒険者あるいは詐
 欺師または道化師たちにとっては、それが人生の目的そのものであったし、18世紀とは、そういうホモ・ルー
 デンス(遊ぶ人間)の時代であったのである。少なくとも最後に登場する大詐欺師ナポレオンが国民国家など
 というナショナリズムを発明するまでは。
  歴史のことはまたにして、話を本のことに戻そう。
  
読みようによってはこの本はカサノヴァ生誕秘話というものであろう。カサノヴァが真のカサノヴァに生まれ
  変わるためにはすべての都市から追放されなければならず、若さも財力も地位も失わなければならず、こ
  の誇り高い男の手許に残った最後のものは、かつて己を追放した故郷へ25年振りに帰るという絶望に近
  い希望だけであった。
 その懐かしの故郷を目前にしての放蕩児が味あわなければならなかった現実を描いてシュニッツラーの筆は
 残酷極まりない。

  
一方、自分を見つめる女の眼差しの中に実際に彼が読み取った己の姿は、盗人でも、色魔でも、卑劣漢で
 もなかった。むしろ、そうあってくれればどんなにか有り難かったかもしれない。だが、その目が語っていたの
 はただの一言、ほかのどんな嘲罵にもまして、決定的に打ちのめされざるを得ぬ、まさに彼にとどめを刺すに
 足る言葉、《老いぼれ》であった。

  しかし、私のカサノヴァは此処から始まるのだ。
 ようやくにして『カサノヴァ回想録』を読むに相応しい年齢になったということだ。
 追憶の道連れではなく、再生の手掛かりとしてだ。
 何もかもを失ったところから始まる人生というものもある。
 いやいや、この人生、失うに足るものなど始めからなにもありはしないのだ。
 どんなに高い塔の牢獄であろうと、何度でも見事に脱獄してみせようではないか、同志諸君。

  それでは10時の鐘が鳴りましたので寝ようと思います。
 おやすみなさい。明日は、日の出とともにこの牢獄からともに出ていこうではないか、同志諸君。
 ヴェネツ
ア人ジャコモ・カサノヴァは言った。

 祖国愛などは、祖国に虐げられた人間の心にとっては全くの幻影にすぎないのである。

 



NO 19  2011年12月

    『北回帰線』、

あるいは彷徨の聖書

      ヘンリー・ヴァレンタイン・ミラー

  1891年12月26日~1980年6月7 

 

 最初の一冊というものがある。
文字通り初めて読んだ本ということであるが、ただ本を読むということであればそれ以前にも多くの本を
読んでいたのであるから、それらの本の中に「最初の一冊」というものがなかったとすれば読書の名に
値する経験はこの本から始まったということになる。つまり、最初の一冊とは、その本を読む以前と以後
を決定的に峻別する内的体験をもたらした、そういう本のことだ。
その本との出合いによって世界が変わってしまうような、あるいは自分の中に新たな世界を発見するよう
な、そんな体験を精神に刻み込むような読書、いや、正確に言えば、この時はじめて人間には精神という
ものがあることを知るのだ、そんな本を最初の一冊というのであろう。
 
幸運にも、私にもそういう本がある。
この本は、私という人間にとってはすべての始まりであり、そして、おそらく最後に行き着くと願う処でもあ
ろう。
1969年8月、知床半島の夏。私は身を焦がすような熱い砂浜に寝そべってこの本を読んでいた。私は
17歳だった。それは自分が何者であるか、何者に成ろうとしている人間であるかを知りたくなる年齢だ。
そういう時にこの本に出会った。

 太陽と海と孤独、それが私の観た風景であった。
1970年9月、十勝の赤い塔のある村の本屋さんで新潮社から出版されていた全集を取り寄せた。
犬を散歩させること以外にはこれといって仕事がなかっ
たので朝から晩まで読んでいた。しかし、私は相
変わらず何者でもなかった。

1972年5月、西新宿の公園のベンチに横たわってこの本を開いていた。フォークソングとやらが流行っ
ていた頃のことだ。既に私は時代とはずれていた。
1973年12月、なぜか紀州和歌山にいた。鮎釣りに行った夜、またこの本を
開いていた。
1997年12月、札幌は大曲で雪の降る夜剣菱を飲みながらまた読んでいた。
40代の終わりだったか、会社を興したり潰したりのビジネス・アウトローのくだらない日常だった。
2011年12月、63歳の冬、海辺の町でまた開いている。
本は、私と同じように相当疲れている。もうボロボロだ。ここまで付き合ってくれた面倒見のいい友人はい
ない、いい相棒だ。長い彷徨の季節にあって、この一冊は聖書として常に私のボストン・バックの中にあ
った。
  
ヘンリー・ミラーは1891年12月26日生まれの男である。つまり山羊座の生まれである。この星の下
に生まれた男の宿命は放浪と好色と孤独である。占星学というものを信じているのではない、私がミラー
から学んだものは偶然を必然の相の下に再構築する自己創造のあり方だ。それはナルシズムとは違う、
自己
に対する信仰である。
12月に生まれたということは単なる偶然にしか過ぎないけれども、しかし、それは間違いなく一つの神話
の始まりであり、たとえその神話が無意味でくだらないものであったとしてもそれが奇跡ではないとは誰に
も云えぬのでは、なぜならこの神話は永遠の中で一回しか起こらないからだ。
私が、私に成るということはそういうことである。
 1934年、ミラーは『北回帰線』を書いた。この時43歳。
その本の序文をアナイス・ニンが書いている。

「この書がもたらすものは、われわれの時代の不毛な土壌のなかで根が枯れう
せたうつろな枯木を吹き
倒す一陣の風だ。この書は、その根元にまでわけ入り、その根を掘り起こし、その下に湧き出る泉を呼び
あげるのである」

   ブルックリンの不良少年はキャプリコーンの宿命を信じての永い彷徨の果てに、クリシーの聖者になった。
  そして、こんな言葉を遺した。

    「いくら受け取っても十分でないもの、それは愛である。
    いくら与えても十分でないもの、それも愛である」





NO 20  2012年正月

加藤周一
1919年(大正8)919日―
2008
年(平成20)125
日本の内と外

 

文化的成熟とは、みずからを批判し、

みずからを笑うことのできる能力である   (歴史の見方 1986

    「その1」

     
一年前、昨年の正月のことだ。ジャン・ジュネを開くにあたって私は「年の初めに何を
  読むかということは、普段の月のそれとは違う意味を
持っている。というのは、どの本を
  選ぶかということは、その年の予告
であり、また願望でもあり、それは自己証明に係わる
  ところの精神上の
儀式でもあるからだ」と書いた。
  で、今年はどの本から始めるかということだが、私は迷うことなくこの一冊を選んだ。
   加藤周一著『日本の内と外』(文芸春秋社、昭和49年・第五刷)、第
一刷は昭和44年
  であるから加藤さんの50歳の時の作品である。それ
を読んだ私は昭和24年の生まれで
  あるから、この出会いは
26歳の時
である。以来、加藤さんにはずっとお世話になりっぱな
  しである。加藤
さんが亡くなった2008年には私は60歳になっていた。
  この間、加藤周一とは私にとって何者であっかと自問してみるに、「知
識人」という言葉が
  思い浮かんでくる。おそらく、そうなのだろう。

   この人は最初から最後まで知識人であった。ここで私が知識人という言葉を使うとき、そこ
  には大学の教授とか科学者とか哲学者とかいった意味は
あまり関係ない。確かに、そうした
  人たちをも知識人と呼ぶのであろうが、
その種の知識人ならば戦前にも戦後にも掃いて捨て
  るほどいて、その言説
の多くは時代に追走することはあっても時代を乗り越えるような生命
  力を
持つものではなかった。
   私が理解するのは、加藤さんが「知識人」であったという意味は石川淳が
「文人」であった
  ということと同じだ。つまり存在のあり方が全く持って
独創的であり、絶対的であったという
  ことだ。

   では、知識人とは何か、それは言葉をもって社会に何らかの働きかけをす
る人のことである。
  その社会がいまだ知ることのないもう一つの新たな社会
についてのビジョンを明示する人のこ
  とである。ルソーがそうであり、サル
トルがそうであったような意味で加藤さんは知識人であ
  った。

   本は、第一部「近代日本および政談」で内を語り、第二部「周囲の世界」
で外を語る二部構
  成になっていて、あと書きによれば、「これらの文章を私
が書いたのは、太平洋のいくさの終
  わった後今日まで20年以上の時期にわ
たっている。」ということだそうだ。
   で、具体的にはどういうことが書かれているかということに進むのだが、
「日本文化の雑種
  性」と題した章では、次のようなことを教えられる。


  簡単な例を一つとろう。西洋種の文化がいかに深く日本の根を養っているかという証拠は、
  その西洋種をぬきとろうとする日本主義者が一人の例外
もなく極端な精神主義者であることに
  よくあらわれている。

      (中略)
   経済の下部構造が「前近代的要素」をひきずりながらもとにかく独占資
本主義の段階に達し
  ている今日、精神と文学芸術だけが純日本風に発展する
可能性があると考えるのは、よほどの
  精神主義でなければむずかしいだろう。

      「その2」
 
  頁125を開く。「天皇制について」を書き写す。

 
   しかし天皇の問題を外から見れば、話はもう少し簡単になるだろう。天皇とそれを中心とす
   る世界は、要するに時代遅れということでしかない。世界の近代史は複雑な発展をして、そ
   の中に何か一定の確実な傾向を指摘することは、容易ではないが、そのなかにも疑う余地の
   ない事実が少なくとも一つだけある。それは王制の国の数が時と共に減じ、今なを王制を残
   している国のなかでは、王家の政治・経済・文化・宗教的権威が、これまた次第に小さくな
   ってきたということである。何故ならば、大衆の民主的自覚は世界中で少しずつ、しかし確
   実に進み、一方権力の世襲制度なるものは、明らかに民主主義の原則と矛盾するからである。

       (中略)
     天皇に戦争責任がないということを、極東軍事法廷が証明したことは一  度もなかった。
   それどころか、キーナン首席検事みずからが、天皇の不起訴の理由は「政治的理由から」で
   あると説明したのである

          4811月)。

     問題は、もしも社会的身分において「聖」なるものが存在するとすれば、それは必ずその
    反対のものを生み出すだろうということである。「聖」の反対概念は「賤」である。すな
    わち、差別社会である。ここで考えてみなければならないことは、この日本の今がはたし
    て民主主義国家であるかということである。

    「その3」
     167頁「戦争と知識人」を開く。

    
知識人が「何も知らされていなかった」というごまかしを、ごまかしとしてはっきりさせて
  おかなければならない。
武者小路実篤(1885-)は、敗戦後、戦争中をふり返って「私は
  だまされていた」といった。そうかもしれない。
しかし「だまされていた」のは、だまされて
  いたいとみずから望んだからである。われわれの問題は、誰かが「だまされていた」ことでは
  なく、なぜみずからだまされたいと望んだかということだ。また誰かが「だまされていなかっ
  た」ことでなく、なぜだまされたくないと望んだかということだ。

     「その4」

   「第二部周囲の世界」の第一章は「アメリカ・巨大な孤島」と題して1962年のアメリカを語る。

 
    たとえば二大政党がある。しかし、英国や日本の場合のように、その一方が社会
党で、他方が保守党
   だというわけではない。二大政党の相違は、一人の大統領候
補が民主党から出るか、共和党から出るか
   を思い迷うといった程度のものにすぎ
ない。別のことばでいえば、政治哲学の原則上のちがいはなきに
   等しいということ
になろう.

    日本の財界が二大政党制を望む理由はここにある。

 

「その五」

再説九条
「憲法九条、未来を開く」

(岩波ブックレットNO・664)2005・7・30

 
昨年の夏、憲法九条のために日本国民に呼びかけたのはわずか九人。今年の夏、東京・有明コロ
シアムで開いた講演会に参加して下さった方はほとんど一万人。呼びかけに賛同して各地につくら
れた「会」は3000になりました。

このことは九条を支持する意思をもちながら、その意見を明示する機会を持たなかった人口が、
いかに大きかったかを、反映しているでしょう。

しかし議会のなかでは、大政党と圧倒的多数の代議士たちが改憲を推進しています。それに対し
て大きな報道機関は、
TVも日刊の全国紙も、はっきりした護憲の立場をとっていません。世論調査
によると、一般国民の意見は改憲か護憲かでおよそ二分されています(九条について改め反対が半
分以上)。このように世論の半分を超える意見が、議会にもマス・メディアにもほとんど反映され
てこなかったのは、正当な状態とはいえないでしょう。

 


先の見通しを持つということは、すでにあった事実の中から、
ある一つの方向をもった流れを見つけ出すということである。
          
加藤周一


NO21   2012年2月
       
「蟹工船」を読む

小林多喜二
1903年(明治36)10月13日
~1933年(昭和8年)2月20日

 

「その1」

 『蟹工船』は昭和4年5月および6月号の「戦旗」に発表されたもので、当時、多喜二は25歳で
 まだ小樽は若竹町にあって、拓殖銀行に勤める町のエリートであった。昭和4年は西暦では192
 9年にあたり、今から83年前の作品である。
  
私が多喜二の全集(大月書店だったと記憶するが)を買ったのは18歳の時で、その当時として
 もすでに40年余り昔の小説であったのだから文学史的には現代文学ではなく近代文学と呼ばれ
 る範疇に属するものであった。しかし、それは多喜二の死があまりにも早かったために起きた錯
 覚ではなかったのではないかとも思う。
 あるいは他にも別な理由が働いていたのかもしれない、たとえば多喜二を過去の文学として文学
 区分の額縁に早めに整理しておきたいというような思惑が左右ともにあったのかもしれない。
  
作品が発表された当時と今では世界はずいぶんと変わってしまったのだろうと思う。
 ソビエトという国もなくなったし、帝国の軍部というものもなくなったし、拓殖銀行も不在地主の磯野
 商店もなくなった。しかし名前を変えて生き残ったものも決して少なくはない。変わったものと変わら
 なかったものを秤にかけてみればどちらが多いのかは簡単には断言できないように思われる。
 現人神は人間天皇となり、帝国陸海軍は陸海自衛隊となり、特高は公安と衣替えし、財閥は家名
 を薄めて財界としてより強大になったし、新聞は戦前と変わることなく相変わらず大本営発表である。

 
 それはともかくとして、小田切進さんの『日本の名作・近代小説62篇』(中公新書)によれば、作者
 自身がこの作の意図にふれて、「資本主義は未開地、植民地にどんな〈無慈悲〉な形態をとって侵
 入し、原始的な〈搾取〉を続け、官憲と軍隊を〈門番〉〈見張り番〉〈用心棒〉にしながら、飽くことのな
 い虐使をし、そして、いかに、急激に資本主義的仕事をするか」を書きたかった(蔵原惟人宛書簡)
 と書いているとおり、題材を作者はすべて「帝国軍隊ー財閥ー国際関係-労働者」(同)の関係のな
 かで全体的にとらえ、階級的な観点から改めて整理し、組み立て〈植民地における原始的搾取形態〉
 の追及を意図して書き上げたのでした。

  作者はまた意識的に個人の性格や心理を描かずに、人間の代わりに集団を、個性の代わりに階
 級を描きたかった、とも述べています。つまり〈集団描写〉の方法をとったのです。集団の中に特定の
 主人公を設定せずに、人間を非人格化する方法は、当時のアヴァン・ギャルド(前衛芸術)の表現主
 義的方法を生かそうとしたのです。

  
多喜二の小樽高商での一級下の伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』が芸術か猥褻かの文学裁判
 は昭和25年に始まり、昭和32年まで争われた。私が多喜二を読み始めたころ伊藤整はまだ何かを
 書いていたし、小樽軍教事件でオルグとして潜入した過去を持つ林房雄は不思議にも年下の三島由
 紀夫を相手に西郷隆盛について訳のわからないことを得意になって喋っていたし、中野重治は左翼
 文学の大御所的存在だったし、小林秀雄は例によって骨董屋の教祖として居座っていた。以上のこと
 は皮肉ではない、ただ時代はそのように流れたということを言っているに過ぎない。まるで何事もなか
 ったかのように、時は過ぎゆき、人は去りゆき、であったということだ。


     「その2」

  我々の芸術は飯の食えない人にとっての料理の本であってはならぬ

   「闇があるから光がある」

   
「わたしは、子供のころはいつも、あふれかえるもの、日の光に充ちたものに心をひかれたが、いまではそれ
  とは反対のもののほうがすきだよ、そういうものしかないと思っているくらいだ。色彩はからっぽだ、みせかけだ
  よ。
   ねえ、アンナ、魂は闇の鳥だ。すべては美しい。だが暗い美しさこそ根本だ、すべての母だ。光のなかにあるも
  のはうわべだよ。影のなかにこそわれわれがいる。影は眼に見えないものを見せる奇蹟の現実だ」
  「あなたのことを思い出すと、うれしいときは悲しくなりましたわ。でも悲しいときはうれしくなりましたけど」
   
              
『地獄』アンリ・バルビュス   秋山晴夫 訳(二見書房)

 

「第一章     盲人の国」

アウトサイダーは、何よりもまず社会問題である。
  かれの役割は「人目につかぬ片隅の壁穴」にほかならぬ。
  安楽なブルジョワの孤立世界にあって、自分が見たり触れたりするものを、現実   として認めながら生きることの
  できない人間が「アウトサイダー」であることをバルビュスは示した。
  「かれは、あまりに深く、あまりに多くを見とおす」のだが、その眼に映じるものは、本質において混沌である。

              
『アウトサイダー』コリン・ウイルソン著  紀伊国屋書店
                          
福田恒存・中村保男訳

師の言葉

アンタンたる気持になる、

不図彼らの意図ものになるべしという気する。

        志賀直哉の「日記」


  多喜二さん。私はこころからお礼をいいたい。あなたが全身の力をふりしぼって、文学と社会変革をともに
  求めたことに対して、です。
  人はだれでも、あなたのように本気で生きてみたいと、一度は思う
のではないでしょうか。
  そういう意味では、たとえ今のブームがつかの間のものであっても、
あなたは何度もよみがえる必要があるでしょう。

             
『小林多喜二』ノーマ・フィールド著  岩波新書

       「注」 『蟹工船』ブーム

   若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景
  のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラー
  になった。また、2009年にはSABU監督によって映画化された。

 天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、
 中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じた
 のです。

             2007年2月17日  しんぶん・赤旗

『二葉亭四迷伝』を書いた中村光夫によれば、

 「プロレタリア文学という言葉は、文字通りにとれば労働者、あるいは無産者
の文学という意味であり、
非常にひろい普遍的な内容をもっています。
しかし、日本の戦前のプロレタリア文学乃至文学運動は、狭い具体的なひと
つの歴史的現象を指します。
現在、その後継者である左翼文学者たちが、自分らの仕事を民主主義文学と
よんでいるのも、偶然では
ないので、その実質、とくに知識階級にたいする影響
力には、戦前と大きな差があります。
戦前の共産党の実力が、現在とは比較にならぬほど微弱でありながら、精神
的権威はそのためにかえっ
て大きかったように、プロレタリア文学が当時の文
学全般にたいして持った影響力は、今日から想像のつ
かぬくらいでした。
プロレタリア文学運動は、プロレタリア解放運動の一翼です。発生的にもそう
であったし、とくに昭和期に、
共産主義が運動の主導権を握るようになってか
ら、きびしく自覚的にその点を強調しました」だそうである。
 
もう少し先を読む。
「しかし、その影響が大きかった割合に、すぐれた作品に乏しかったのもまた事実です。とくに後半期にな
って明瞭になった政治偏重などがその理由として
あげられますが、おそらくその最大の原因は、それが小
説に人生を盛るには若
すぎる年代の青年たちの運動であった点にあります。
新感覚派の運動と同じく、プロレタリア文学は主として20代の青年の運動で
あり、その指導的作家や批評
家の年齢は、末期に近づくほど若くなります」

『日本の現代小説』岩波新書


 しかし、それぞれの作品は独立しているのであり、その創作理念の党派性や、それが生まれた時の社会
背景といったものだけで作品を読みとってよい
ものだろうか。私はそうは思はない。
小説を書く動機がどうであれ、書き手が己の書くものの真の全体性を理解しているとは限らないし、という
より書き手が己の書くものを全体的に理解してい
るとしたならば、それは文学の領域の話ではないだろう。
私は、時代区分に従って作品を理解しようとは思はない。
すべての文学は、(それが文学という名に値するものであるならば)時代を超え
ての「隠喩についての実験」
である、と私は考える。
 それはこういうことだ。小林多喜二の作品がプロレタリア文学であるかどうか
は重要な問題なのではない。
問題は、人が、多喜二の作品から読み取る「意味」の今日性と普遍性であろ
う。誤解を恐れずに言うならば、
多喜二の栄光とは特高に虐殺されたことにあ
るのではない、それは『蟹工船』という反抗の文学を遺したこと
にある。
それが証明したものは、文学とは流通商品でもなければ文章をもっての遊戯
でもないということだ。

                                        風狂散人

NO22    2012年3月

ここに入らんとする者はすべての希望を棄てよ
ダンテ

 

『夜と霧』
ドイツ強制収容所の体験記録
フランクル著作集1
霜山徳爾訳(みすず書房)
1970年第16刷発行 定価600円

 

 


    「夜と霧」
 この名の由来は、1941年12月6日のヒットラーの特別命令に基づくもので、これは、非ドイツ国民で占領軍
に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裡に捕縛して
強制収容所に おくり、その安否や居所を家族親戚にも知らせ
ないとするもので、
後にはさらにこれが 家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一
夜にして消えうせた。これがいわゆる「夜と霧」命令であって、この名はナチスの組織の本質を示す
強制収容所
の阿鼻叫喚の地獄を、端的に象徴するものとして最近は用いられる
ようになった。

  出版者の序

 1931年の日本の満州侵略に始まる現代史の潮流を省みるとき、人間であることを恥じずにはおられないよ
うな二つの 出来事の印象が強烈である。
それは戦争との関連において起こった事件ではあるが、戦争そのものにおいてではなく、むしろ国家の内政と
国民性とにより深いつながりがあると思われる。

 さらに根本的には人間性の本質についての深刻な反省を強いるものである。
第一には、1937年に起こった南京事件であって、これは日本の軍隊が南京
占領後、無辜の市民に対して掠奪
・放火・拷問・強姦などの結果、約20万人と
推定される殺人を行った。これは当時の目撃者や医師・教授・牧師
たちによる国
際委員会によって報告書が作製されており、さらに極東国際軍事裁判においても広汎に資料が蒐
集されたが、手近かには林語堂「嵐の中の木の葉」(竹内好
訳・三笠書房刊)やエドガー・スノー「アジアの戦争」
(森谷巌訳・みすず書房刊)
などの中にもヴィヴィドに描写されている。
 第二は1940年より1945年に至るナチズム哲学の具体的表現ともいうべき
強制収容所の組織的集団虐殺で
ある。
これは原始的衝動とか一時性の興奮によるものではなく、むしろ冷静慎重な計
算に基づく組織・能率・計画がナチ
ズム の国家権力の手足となって、その悪魔
的な非人間性をいかんなく発揮した。

  1 プロローグ(すなわち最もよき人々は帰ってこなかった。)

  119104という「番号」をもったこの囚人が「心理学者」として強制収容所において体験したものをここ
  に描こう とするとき、まず注意してほしいのは、彼が強
制収容所においてもちろん「心理学者」として働い
  ていたわけでもなく、また(最
後の数週間を除いては)医師としてすら活動していたわけでもないということ
  で
ある。
   そのことは、私の個人的な生活様式ではなくて、通常の囚人が収容所で体
験した生活様式の叙述が、
  ここでは 題なのであるだけに、一層重要なことなの
である。
  そして私は自分が「通常の」囚人以上のものでなかったこと、119104号以外
の何ものでもなかったことを、
  ささやかな誇りをもって述べたいと思う。

   
2 アウシュヴィッツ到着(ここに立札があるーーアウシュヴィッツだ!)

 
   精神医学はいわゆる恩赦妄想という病像を知っている。すなわち死刑を宣告
された者が、その最後の
  瞬間、 絞首のまさに直前に、恩赦されるだろうと空想
しはじめるということである。かくしてわれわれも希
  望にからみつき、最後の瞬
間までそんなに事態は悪くないだろうと信じたのであった。

 
  3 死の蔭の谷にて(無感覚、感情の鈍磨、内的な冷淡と無関心)

 
   栄養不足の結果、収容所生活に適応した第二段階の囚人の原始的衝動性は、
食欲を意識の前面に
  押し出したのであるが、他方また栄養不足は、性欲が一般
になくなってしまったという事実をもおそらく説
  明するであろう。最初のショックの時
期を除けば、男性の集団虐待の中における心理学者の眼には容易
  に次のこと
明らかになった。すなわち他の場所(たとえば兵営の如き)における集団生活と反対に、ここ
  では男色が全く見られなかった。囚人の夢においてすらも性的な内容は
殆ど浮かんでこなかった。

    
4 非情の世界に抗して(ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心
の武器である)

   人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って
行くあらゆる原始性にも
  拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向もあ
ったということが述べられねばならない。元来精
  神的に高い生活をしていた感じ
易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、
  収容所
生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとって それほど破壊的に
  は体験し なかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周
囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと
  逃れる道が 開かれていたからで
ある。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な
  身体の
人々より も、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。

  5 発疹チブスの中へ

  かくして強制収容所における人間が文字どおり群衆の中に「消えようとする」
ことは、環境の暗示による
 ばかりでなく自分を救おうとする試みでもあったので
ある。五列の中に「消えて行く」ことは囚人がまもなく
 機械的にすることであった
が、「群衆の中に」消えて行くということは彼が意識して努めるのであり、それ
 は
収容所における保身の最高の掟、すなわち「決して目立つな」ということ、どんな些細なことにでも目立
 って親衛隊員の注意を惹くな、ということに応じている
のである。

      「知ることは超えることである」

   
今、なぜこの本を読むのか、そのことについて考える。
 ナチスの蛮行が反ユダヤ主義で説明がつくものなのかどうか私にはよく解らない   けれども、問題はこの
 事(ホロ コースト)をドイツ国民は知っていたのかということだ。

 ある日昨日まで親しくしていた隣人が突然いなくなるというようなことが起こるとする、そのことに不思議も
 異常も 感じない市民の日常生活というようなものが想像できるだろうか。
  この本の「訳者あとがき」によれば、
 「著者ヴィクトル・E・フランクルはウ
ーンに生まれ、フロイド、アドラーに師事して精神医学を学び、現在
 ウ
ーン市立病院神経科部長を兼ね、臨床家としてその識見を高く買われているばかりでなく、また理論
 家としては精神分析学の所謂第三ウイーン学派として独自の実存分析(ビンスワンガーと異なる意味で)
 を唱え、オーストリー のみならず西欧によくその名を知られている人である。
   (中略)
  少壮の精神医学者として嘱目され、ウ
ーンで研究を続けていた彼は美しい妻と二人の子供にめぐまれ
 て平和 な生活を続けていた。しかしこの平和はナチスドイツのオーストリー併合以来破れてしまった。何故
 ならば彼はユダヤ人であったから。ただそれだけの理由で彼の一家は他の人々と共に逮捕され、あの恐る
 べき集団殺人の組 織と機構をもつアウシュヴィッツへ送られたのである。そしてここで彼の両親、妻、子供
 はあるいはガスで殺され、あるいは餓死した。彼だけがこの記録の示すような凄惨な生活を経て生きのびる
 ことができたのである。」
  
社会全体が無感覚を受け入れたとき、不条理はありふれた一例となってしまう。そのときにはもはや何事
 も識別不可能である。この本には長い解説文がついていて、それによれば「戦争が布告された時には、ドイ
 ツ国内には六つの強制収容所があり、合わせて約二万人の囚人が収容されていた。続く二年の間に更に幾
 つかの収容所が 建てられたが、その中には以下の呼名で知られたものがある-----アウシュヴィッツ、ベル
 ゼン、ブッヒエンワルト、フォセンベルグ、マウトハウゼン、ナッツワイラー、ノイエンガム、ラヴェンスブリュック、
 ザクセンハウゼン等である。
  つまりこういうことだ。収容所は侵略戦争を遂行していく上で必要とした政策でも施設でもなく、それはいつで
 も戦争が始められる国を作るための準備であったということだ。「党と国家の敵はすべて取り除く」というのが
 ゲシュタポに課せられた任務であった。ナチスの収容所は労働力の確保を目的としたものではなかった。



     ロベール・デスノスが歌うとらわれ人の詩
    「テレ-ジエンシュタット収容所(Le camp de concentration de Theresienstadt)」
                           (壺齋散人訳)


     今宵僕が歌うのは戦うことではなく
     日々を大事にすることさ
     生きることの楽しさや
     友達と呑むワインのうまさ
     愛や
     ともし火や
     夏のせせらぎ
     食事のたびのパンと肉
     道端を歩みつつ口ずさむルフランの調べ
     安らかで苦悩を知らぬ
     眠りのこと
     別の空を見る自由
     そして尊厳の感覚と
     他人の奴隷になることを拒む勇気だ

   デスノスは19442月にゲシュタポに拘束されたのち、コンピエーニュ、オスヴェンツィム、ブッヘン
  ヴァルト、フレーハの各収容所をたらいまわしされた後、19454月にチェコのテレ-ジエンシュタット
  収容所にやってきて、そこで死んだ。
  この詩は、死の直前に書いたものだ。


  「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。過去の罪を心に刻まなければ和解の道はない」
   「我々は若かろうが年をとっていようが、みな過去を受け入れなければならない」

リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー

1920生~2015没

 

   ※    1985年、第二次世界大戦終結から40年の5月の演説。

ドイツ大統領




NO23   2012年4月


アヴァンギャルド
あるいは沈鬱と哄笑

  この男は、小樽で生まれ、稚内、秋田、樺太、旭川、東京と流れ歩いた。
  この男は、漁師の手伝いをし、養鶏場の番人となり、炭焼きをし、農夫に化け、昆布拾いに精を出し、
  伐木人夫となり、職工なども経験し、パルプ工場で働いて、右手の指を2本なくし、その後新聞記者
  に転じそして、詩人となり、絵も描き、童話も書いた。   

       

小熊秀雄

(おぐまひでお)
1901(明治34年)~1940(昭和15年)
死因、肺結核 

 
 


        「人生の雑種として」

   どうせ私は植民地生まれ
    混血児なんだ
     お気にさわったら
      御免なさい、
       理解できなかったら
        勝手にしやがれ
         私は人生の雑種として
          節操がない
           すべての男とすべての女の
            腹の中に
             私は胤をおろそう、
              私の可愛い子供が殖えるように
               私の思想をバラ撒こう、
                私の無礼な性格は
                 私のせいでない
                   海に囲まれたこの島国で
                    私は35年間
                     現実と和睦してこなかった
                      舌はもの食うばかりでついていない
                       噛み切るためにもついている

               
                
『小熊秀雄詩集』


    

  この男は生きているときに、こんなことを言っていた。
  「20年も、そのもっと前に、自分は詩を書き初めたとき、こんな念願をたてた
ものであった。
  それは一生の間に自分の身長だけの高さの、詩集の冊数
をもちたいものだということであった。」
  しかし、時間が無かったのだろう。
  この男は生きているときに『小熊秀雄詩集』と『飛ぶ橇』の2冊、死んでから
『流民詩集』の1冊
  そうだ、たったの三冊しか遺さなかった。

  それも、それほど読まれているわけではない。時代がこの男の仕事を理解し、
そして必要とするの
  は、おそらくもっと後のことなのかもしれない。
  読者は、常に新しい何かを探し求めている。新しいということにどういう価
値があるのかはよく解か
  らないが。
  しかしだ、本もまた、己に相応しい読者の誕生を密かに待っているものなのだ。

   小熊秀雄は、あらゆる意味で「反・時代的」である。
  ダンディズムとは、一つの態度のことである。
  この男の詩を読むと、なぜかリー・モーガンのトランペット思い出す。
  『ザ・サイドワインダー』といったか、あのレコードは。
  問題は、精神の肺活量であるか。

   それにしてもまた小樽だ。なんとも不思議な都市である。

             風狂散人 

 

NO24  2012年5月

 

孤島

竹内書店

井上究一郎訳

 

 

   われわれが、前もって定められていた自分の運命を知るには長くかかる。
  運命の限界を認めるには、さらにそれ以上に長くかかる。

ジャン・グルニエ(1898~1971)


     1、『孤島』

   この季節、海辺の町に暮らしていると日を追うごとに夏の気配が強く感じられる。吹く風にも、海鳥の鳴く声にも、
  降る雨の煌めきにも、夏の生誕が近いことが感じられる。勿論、それは気候の変化に伴っての光や熱の高まりが
  促すものであるのだろうけれども、私の場合、夏を待ち望む欲望は常に海を懐かしむ感情と深く結びついていて、
  それはある時代の、ある土地への郷愁であり、また何時かは見出されるであろう未だ名付けえぬある時への予感
  とその震えである。
   そして、こうした精神状態になった時、私は一冊の本を開く。
 
 1976年8月20日、私は26歳、風雅の裏街道を行く出来の悪い旅人であった。処は道央の赤い塔のある村、そこ
  で一冊の本に出会った。
  ジャン・グルニエの『孤島』という本だ。この本は奥付によれば1968年に竹内書店から井上究一郎さんの訳で刊行
  されたもので定価580円である。当時の物価事情についてはよく覚えていないので580円というのが高いか安いか
  は知るところではないけれども、この一冊は私の父であった男が大阪の天牛という屋号の古本屋で買ったものだ。
   父であった男については此処では語らない。まあ、息子である私がこの程度の夏炉冬扇の徒であるからその父親
  も特別な者ではない。俗にいう推して知るべしと言ったところか。鳶が鷹を生んだのか、その反対だったのか、といっ
  たところだ。ただこの人は書物については目利きであった。庭園の快楽主義者であったのだろう。私の家庭事情はと
  もかくとして、先を続けよう。
   この本がどういう本であるかはグルニエの弟子であった男が語っている。
  弟子の名は、アルベール・カミ
、美しい文章だ。

  「なぜなら、その人生にあって、少なくとも一度、そのような熱狂的な従順を経験することができるのは、やはり一つの
  幸運にちがいないからだ。」
   
「この小さな書物を道でひらいてから、最初の数行を読んだところでそれをふたたびとじて、胸にしっかりおしつけ、
   見る人のいないところでむさぼり読むために、自分の部屋まで一気に走ったあの夕方にかえりたいと思う。」

    カミがここで言わんとしていることは、たぶん人生における出会いということであろう。その出会いは、自分が何者
  であるか、何者になろうとしている人間であるかを考えさせる契機となるものであったのだろう。確かに、少年期の終わ
  りにこういう出会いを経験することは一つの幸運である。いや、それはほとんど奇跡としか呼びようのないものだ。
  一人の人間に対する憧憬、これこそが少年が待ち望んでいた秘儀である。この内的体験はその後の人生に決定的な
  影響を及ぼす最初の自己確認なのである、と私は思う。
   グルニエは言う。(空白の魔力)
   
「どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。そんな瞬間は、
   あとで見出すことが困難だ。それは、時刻の堆積の下にうずもれている。
     (中略)
  「私というのは、生きるべく運命づけられている人間というよりも、なぜ生きているのかを自分にたずねるべく運命づけら
   れている人間のひとりだった。いずれにしても、いわば人生の「余白に」生きるべく運命づけられていた。」

  私がカミの『異邦人』を読んだのは少年期も終わろうとする季節であったから、そこからグルニエにたどりつくまでには
  5・6年の時が過ぎている。カミ
は小説家であったから、その作品(エッセーを含めて)を読むということは、単純に言えば、
  人間が営む行為の原因と結果についての分析と省察である。
  ではグルニエを読むということはどういうことなのか、グルニエの書く文章の中には行為者はいない。そこに在るのは一個
  の裸の精神というものである。

   「その人生のなかで、挿話、舞台装置、気晴らしなどを構成しているものを、すべてとり去った裸の人間を・・・。」ということ
   である。

   精神の避難場所としての孤島があるのではない、精神そのものが一個の孤島なのである。
  グルニエの語り口はこうである。

   「また、ある正午を、太陽にまぶしく光る野原を前にして、私は思った、人間は人間から受けつぐことができる、と。そして
   この受けついだもろいもので足りる、と。」

    訳者の井上さんは「あとがき」に次のように書いている。

   「島」はまず屋根うらの書斎であり、その孤独にこもる人間である。

 

 

   グルニエにはもう一冊『地中海の瞑想』と題するエッセイー集がある。
  これも竹内書店から出されている。訳者は成瀬駒男さんだ。
  深みのある静かな本だ。

  その79頁。

  スペイン広場へいけば、カザノーヴァが花売り娘と同棲していたあの部屋が思い出される。何処で上を見上げても、
 或る思い出が、というよりも或る存在が、甦ってくる。

  その96頁。

  人は、愛することができる時にしか、単調な生活を理解できない。

  その102頁。

  人間は、自分の身の丈に合った人生を追求すべきである。が、それを一度見つけたら、投げ棄てることだ。
 というのも、自分の身の丈に合った人生など存在しないからだ



NO25  2015年7月

「自発的隷従論」

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
西谷修監修・山上浩嗣 訳
付論
「服従と自由についての省察」シモーヌ・ヴェイユ
「自由、災難、名づけえぬ存在」ピエール・クラストル
解説・不易の書『自発的隷従論』についてー西谷修
筑摩文庫定価1200円

 

「多数者が一者に隷従する不思議」

  ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということが
 ありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々がみずから与えている
 力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで堪え忍んでいるから
 にほかならない。その者に反抗するよりも苦しめられることを望むのでないかぎり、その者は人々にいかなる悪
 をなすこともできないだろう。


   

朝早く新川通りにあるコーチャンフォー(郊外型書店)へ車を飛ばした。ラ・ボエシの『自発的隷従論』を買う為
 である。こういう気持ちで本を買い求めるのは久し振りのことだ。いい歳をして1分も待っていられないのである。
 何だか昔の恋人に再会するような、そんな気分だ。事実、私がモンテーニュを読んだのは20代の半ばのことであ
 ったから、その時点でラ・ボエシの名前は知っていた。

  私が読んだ『エセー』は原二郎訳によるもので筑摩書房から「筑摩世界文学大系13(1・2)」の全二巻として昭
 和48年に発行されたもので、それは今も手許にある。第一巻の114頁に、プルタコスの「アジアの住民はただ一
 言、否(ノン)、と言うことができないためにただ一人の君主に仕えた」という言葉を引いて、これがラ・ボエシに『自
 発的隷従論』を書く材料と機会を与えたのです、と書いている。

  しかし、私は今日までラ・ボエシを探すことはしなかった。エセーはこれまでに何度も読み返してきたが、ラ・ボエ
 シのことはボルドーの殿様の若くして亡くなった親友としてしか記憶に残らなかった。恥ずかしいことだが私の読書
 力とは、この程度のものである。

  まあいい。幸いにして愚か者にとっては人生は長い。135頁を開く。「第28章・友情について」だ。この章はラ・ボ
 エシに捧げたオマージュである。モンテーニュは、こう書いている。

 「もしも人から、なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、[それは彼であり、私であったから]と答える以外に、
  何とも言いようがないように思う」と。

 ではモンテーニュの刎頸の友であったラ・ボエシとは何ものか。


       「解題」を開く。

  エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは、なによりもモンテーニュの無二の友人として知られている。彼らはボルドー高等
  法院の同僚として刎頸の交わりをもったが、ほどなくしてラ・ボエシが死んだ。32歳の若さであった。

  モンテーニュは『エセー』に、「もしもこの生涯の全部を{・・・・・・・}あの人との甘美な交際を楽しむために与えられ
  た4年間にくらべるならば、それははかない煙にすぎず、暗く退屈な夜にすぎない」と記している。

   彼の死後4世紀以上の時間を経て、本論が啓蒙主義時代の社会契約説に通じる先駆的理論を提示した政治
  哲学の古典であるとの評価が確立されつつある。

 

       1 ラ・ボエシの生涯(1503-63年)

     エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは、1530年11月1日、フランス南西部のペリゴール地方にある小都サルラの裕福
   な家庭で生まれた。

   ペリゴール大法官特設代理職であった父と、ギュイエンヌ地方の法官の娘である母を、ともに幼時に失った彼は、
   聖職者である伯父のもとで、法学、神学、ギリシア・ローマの古典文芸について学ぶ。国王アンリ2世によって、
   規定の年齢に達する前に高等法院評定官の職を購入することを許可され、1554年5月にボルドー高等法院(正
   式にはギュイエンヌ高等法院)に評定官として着任する。
    ここでラ・ボエシは、のち1557年に同僚となるモンテーニュと友情を結んだ。
   ほどなく彼らは、宗教改革がつとに広まったアキテーヌ地方南部を揺るがす宗教的悲劇にまきこまれることになる。
  1563年8月18日、モンテーニュに看取られながら、彼は33年足らずの短い生涯を終える。

            2 『自発的隷従論』 解釈の歴史

      モンテーニュによると、『自発的隷従論』は、ラ・ボエシが16歳(1546年)か18歳(1548年)のときに書かれ
   た論文である。
   1792年、山岳派の指導者のひとりマラーが、ロンドンで出版した英語版に続いて、パリで『隷属の鎖』を刊行する。
   ここに『自発的隷従論』からの剽窃といってもよい箇所が散見される。

      3 『自発的隷従論』の内容について

     『自発的隷従論』は、ひとことで言えば、多数の民衆が、人間の本性の一部である自由を放棄してまで、たった
   ひとりの暴虐な圧政者に進んで隷従するという理解しがたい逆説の理由を考察する論考である。

 

     この朝、私がラ・ボエシを必要とした理由は一つだ。それは、人はなぜ隷従するのかという疑問だ。そして、そのこ
   とになぜ気づかないのかという疑問だ。
   安倍首相は国内で発表もせず審議もしていないことをなぜ米国の議会で約束をしたのかということ、そのことにつ
   いて日本のメディアはなぜ徹底抗戦
のキャンペーンを展開しないのかということだ。今、この国で何が起きている
   のか、それはどういう方向性を持っているのか。
    監修者の西谷さんは、この不易の書についてこう語っている。

   「16世紀半ばのフランスで夭折した一法官の遺した若書きの論文を、21世紀初頭の日本でなぜあらためて紹介し
   なければならないのか?[中略] 
   一見素朴で古風にも見える4世紀以上も前の小論、それも世知に長けていたとも思われない早熟な若者の手にな
   る論文が、その後のどんな類書よりも事
柄の本質を直截に突いており、そこに開示された「真理」がとりわけ現在の
   日本
で、支配的秩序の構造を照らし出すのにうってつけだというだけでなく、共同存在としての人間のありようを根本
   から考えるうえでも啓発的で、ぜひこの論文を
手近に読めるものとしたいと考えたからである。[中略」
    そしてようやく革命後の1835年、論文の全体がフランソワ・ド・ラムネの手によって初めて単行本として出版される。
   革命思想の先駆けと評価されたから
である。それ以降この文書は古典として今日に伝えられているが、それが歴史
   の闇を潜って生き残ったのは、この書を「誤解」や「濫用」から守ろうとした人びとによってではなく、この書によってや
   みがたく「目覚めて」しまった人びとの手
によってだったと言ってよいだろう。[中略]
    たとえそれが、扇動のための政治文書として書かれたものではないとしても、権力による支配や人間の自由につい
   て独特の考察をめぐらしたこのエッセイ
は、圧政に対する戦いが沸き起こるたびに蘇り、まさに「目覚ましの鐘」として
   人々の心に響き、「解放」のための戦いに立ち上がらせたのである。いささかも扇動の意図がなくとも、〈真理〉は人び
   とを「目覚めさせ」、その生き方考え方
を変えさせずにはいない。

     「そんなふうにあなたがたを支配しているその敵は、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない。数かぎりない町
   のなかで、もっとも弱々しい者がもつものとまったく変わらない。その敵がもつ特権はと言えば、自分を滅ぼすことがで
   きるように、あなたがた自身が彼に授けてものにほかならないのだ。

    たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人びとは、
   悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛のもとに生まれ、
   隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見出した
   もの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。
    自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も、はじめは轡を噛んでいて
   も、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍をのせられたら暴れていたのに、いまや馬具で身を飾り、鎧を
   かぶってたいそう得意げで、偉そうにしている。

    芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、
  自由の代償、圧政のための道具であった。

  古代の圧政者は、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆
  は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして
  隷従することに慣れていったのだ。」

 

    ラ・ボエシを「思想史におけるランボー」と位置づけた人類学者のピエール・クラストル(1934-1977)は、この思想
   を次のように説明している。

   「彼の論は、次のような主張を暗黙の前提としているのだ。すなわち、〈区別〉は社会の必然的な構造ではないのだから、
  当然ながら、社会における〈区別〉
が不幸にして発生する以前には、人間の本性に合致するかたちで、抑圧も服従もない
  社会が展開していた、という主張である。ジャン・ジャック・ルソーとは
異なり、ラ・ボエシは、そんな[抑圧も服従もない]社会
  はおそらく存在したこと
がないとは言わない。たとえ人間がそのような社会の記憶を失っているとしても、たとえラ・ボエシが
  そのような社会の再来の可能性にはほとんど希望を抱
いていないとしても、彼は、災難以前の社会のありかたとはそのよう
  なものだ
ということを知っているのである。」

    哲学者アランの弟子であったシモーヌ・ヴェイエ(1909-1943)はこう言っている。

    「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である。それによって抑圧されている人々が、
  できるかぎりそれを覆そうと
するのを、責めることはできない。彼らがそれをあきらめたとすれば、それは徳によるものである
  どころか、彼らの男性的な徳を根絶してしまう屈従の結果
である。」

    話は変わるが、竹内洋著 『丸山眞男の時代』(中公新書・1820)によれば、1957年2月、石橋湛山首相の病気総辞職
  のあと、A級戦犯であった岸信介
の内閣が誕生した。岸は、安保を双務的な内容に改定することを政治課題としていた。
  翌年の1958年10月、岸はアメリカ人記者に、「いまの日本の憲法
では戦争もできないし、海外派遣もできない、国際情勢
  は大きく変わっている
のだから、今や日本国憲法の第九条を廃棄すべき時に来た」と話している。
   これもまた「自発的隷従」の一つである。今また岸の外孫である安倍首相は戦争できる国へと一直線である。ここでも「自
  発的隷従」である。この二
代に渡る自発的隷従を止めさせる方法はただ一つしかない。
  それは私たち
が国家への自発的隷従を止めることだ。
     


NO26  2016年8月

「記憶、または闇を照らす意志」

  過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります
  
   『荒れ野の40年』ヴァイツゼッカー

 
           

    昨年の秋、9月の始め頃だったか、星置梁山泊のお茶会で菊地慶一さんという名前を初めて聞いた。そこで
 の話では、菊地さんという人は『あの子たちがいた七月』という本を書いた人で、元は網走在住で彼の地で「9
 条の会」の運動に拘わっていたことがあり、現在はなんと我が町星置に住んでいるとのことだった。

  お茶会に出席していた女性の皆さんはその本を既に読んでおり、「新婦人の会」をはじめとして各サークルで
 もこれが話題の一冊であると教えられた。

  お茶会の帰り、尾張老師にその本をお借りした。以上のところがこの新たな邂逅の序章である。いや、全く持
 って人と人の出会いというのは、何時、何処で起こるのか分からない。60歳も半ばを過ぎたというのに、まだ
 こういう素晴らしい人とお知り合いになれるとは、私はつくづく幸運な男だね。
  その夜、開いた一冊は北海道の空襲について書かれたものだ。この本については今更の説明の必要はないだろ
 う。私の周辺ばかりでなく、全国的に広く読まれて既に評価の定まった一冊である、私ごとき風狂無頼の徒が紹
 介の真似事や批評めいたことを口にするのは僭越というものだ。
  しかし、私がこの一文を起こすに当たってはこの本から始めなくてはならない。その理由は、菊地さんと面識
 を得る前に私はこの本を読んだのであり、つまりこの本が、この後に来る長い冬の間、私が迷い込んだ迷宮「キ
 クチ・ワールド」の入口だったからである。私が言うキクチ・ワールドとは空間的には北は北海道から南は沖縄
 まで、時間的には幻影のオホーツク人から始まって1945年をターニングポイントとしての現在に至るもので、
 迷宮の曲がり道・戻り道にはいくつかの標識が立っている。先ずそれを確認しておく。札所第一番は『あの子た
 ちがいた七月』(共同文化社)、第二番は『』もうひとつの知床』(道新選書)、第三番は『オホーツク氷岬紀
 行』(共同文化社)、第四番は『流氷ほたるの海』(日本児童文学者協会北海道支部)、第五番は『街にクジラ
 がいた風景』(寿朗社)、第六番は『流氷の見える丘から』(小林印刷)、第七番は『流氷』(響文社)、第八
 番は『沖縄で骨を掘る』(オホーツク書房)、以上の八冊である。

  私が書くものが紹介文でもなく批評文でもないとすれば、個人的な読書ノートということに落ち着くのか、しか
 し私にはそういう生真面目な習慣はない。まあ、形式に拘る必要もないだろう。単なる、愚者の真夜中のエチュー
 ドである。お急ぎでなければ紳士淑女の皆様方よ、紅茶でも飲みながら暫しのお付き合いをお願い申しあげます。

  あの子たちがいた七月とは、1945年のことである。
 本を拓いて4頁~5頁に「北海道空襲犠牲者地図」が載っている。先ず、その地名を読み上げる。
 常呂、網走、小清水、中標津、標茶、別海、根室、厚岸、浜中、釧路町、釧路市、阿寒、白糠、音別、浦幌、本別、
 池田、音更、帯広、豊頃、大樹、広尾、様似、浦河、静内、新冠、門別、厚真、苫小牧、室蘭、伊達、長万部、八
 雲、砂原、森、鹿部、南茅部、椴法華、戸井、上磯、函館、知内、福島、松前、寿都、岩内、古平、積丹、余市、
 小樽、札幌、江別、石狩、厚田、富良野、旭川、増毛、留萌、おびただし土地の名前であるが、私は決して無駄な
 ことは書かないつもり。これらの土地で何が起きたのか、確かに「遠い記憶」ではあるが、けれどもそこにあった
 「死」の一つひとつは事実であり、何も解決されずに置き忘れられたままであり、それぞれの人生は忘却されたまま
 であり、時間は切断されたままである。

  本のあとがきに菊池さんはこう書いている。
 「あのとき13歳の少年だったわたしが、釧路市で体験した空襲は、その後70年を生きる間、心の奥ふかい所に
 ずっと居座っておりました。
 戦後70年というのは、わたしの年齢にとってはもう最後の節目です。この出版は細々とした作業と行為でしたが、
 平和を持続するために、わたしなりの声を上げたかったのです」と。つまり、菊地さんもまた紛れもない「あの子
 たちの七月」の中の一人なのである。菊地さんが生き残ったのはただ運が良かっただけで、それは単なる偶然に過
 ぎない。とするならば死んだあの子たちは運が悪かったのか、いや、そうではあるまい。
  人の生死を運不運や確率で説明できると考える態度は最悪の現実追認主義である。これはお役所の官僚の事務仕
 事であって、そこから文学が生まれることはないし、世界が見えてくるわけでもない。ましてや死者がいかなる意
 味においても完璧な無罪者であった場合は、この者に加えられる暴力は絶対的な「悪」である。問題の出発点はこ
 こだ。
  直接の加害者はアメリカ海軍第三艦隊38任務部隊のグラマン、ブオート、カーチスといった艦上戦闘機である。
 しかしこれらの戦略爆撃を無防備の土地に呼び込んだのは国体護持の大日本帝国である。この加害の二重性の中で
 殺戮はゲーム感覚で行われたのである。この図式は最後に取り上げるもう一冊の本の中でまた見ることになる。

 もう一度問う。誰が、あの子たちを「死」に追いやったのか。生き残った者はこのことを追求しなければいけない。
 そしてその結果を1945年・夏の少年少女に報告しなければならない。これが生き残った者の人間としての使命
 である。

  菊地さんの書いたこの一冊は小説ではない、記録でもない、もちろん随筆・エッセーの類にも属さない。ではフィ
 クションかというとそうと断言できるものはない。ではこれは何か、一つひとつの「死」は絶対的な事実である。
 その「死」が直前までに営んでいた穏やか日常、そこにあった希望、友情、憧憬、愛情、冒険を菊地さんは「遠い記
 憶」としてではなく、私たちの「今と此処」を照射する「近い記憶」として再構築したのである。これを文学の上で
 は加藤周一の言葉を借りて言うならば、形式の発明という。全く新しいものを表現するためには全く新しい文体と形
 式が必要とされるということだ。
 かくて私たちはこの一冊を手にすることによって、ある過去を、現在を照らす光として受け取ることが出来たのであ
 る。「記憶または闇を照らす意志」とはこの孤立無援の憤怒の方法論のことを言う。
 
 思うに、これが菊地慶一さんという叙述家の人生と歴史に向かい合う立場であり、態度であり、思想である。
 書くとは、闇を照らすということであり、埋もれた真実を掘り起こすということである。私の読んだ限りで言えば、
 これが菊地さんの全著作に響き流れる通底音である。
  この本を読んで数日経った後、私は星置駅前のマンションの10階に菊地さんを訪ねた。星置9条の会の第36回
 目となる「講演と文化のつどい」の講師を引き受けてもらうためである。祝うべし、ここにまた一人、賢者との交友
 が始まった。

   
第二の書は、『もうひとつの知床』(道新選書)、サブタイトルは「戦後開拓物語」。本が発行されたのは2005
 年の9月であるから、この事を頭に入れて読まなければならない。というのは2016年の今の知床については私は
 何も知らないからだ。もっとも2005年当時も知床については何も知らなかったのだけれども、本を読むというこ
 とはこういうことだ。つまり、己の無知についていやと言うほど思い知らされるということだ。しかし、ここに本を
 読むことの愉しみがあるというのも、また事実である。ここでも私が読むものは、物の名、人の名、そして土地の名
 だ。
   私は小学校に上がる1年前から中学卒業まで道東の斜里という町で過ごした。 父は斜里高校の定時制の歴史の教師
 であった。だから少年時代の想い出といえば、その殆どが斜里町及びその周辺での出来事である。従って、悪餓鬼の
 冒険の縄張りの中にはこの本に出てくる地名のすべてが入ってくる。峰浜、真鯉、朱円、似久科、富士、川上、大栄、
 日の出、ウトロ、岩尾別等々。そういう意味ではこの本は私にとってどこか懐かしみのある親しみやすい本であるが、
 また土地の名前に限らず、そこで生きていた人たちについてもその何人かは直接知っており、その何人かはお名前だけ
 は存じているといった関係で、本と読者である私との精神的な距離はかなり近い。
   例えば五十嵐金物店だ。懐かしい名前だ。この店で何かを買ったという記憶はないが、この店の前の通りが斜里とい
 う町のメインストリートだった。
  次に人の名だ。木谷維良(きやただよし)さん、この人は京都出身で旧社会党の町会議員であった。私の父とは友人関
 係にあって家族ぐるみの交流があった。ウトロの桂田歓二さんは私のお師匠様であった原薫の北大での先輩で、ウトロ
 ではユースホステルを経営していた。晩年は高野山に登り僧侶となった。藤谷豊、この人は私が小学生の時の斜里町長
 であった。日の出の七条茶屋の息子さんは名を司(つかさ)さんといって私の父の教え子であった。斜里町の田中旅館
 には私の同級生がいた。斜里の土橋木材工業所には一期上の上級生がいた。ウトロ出身の牛来昌と言う人は後に町長に
 なるのだが、その頃、私はもう斜里にはいなかった。
  と、ここまで書いてきたが斜里に関することはすべて私事である。
  少年期の追憶が光りであるとするならば、その蔭の部分はどこにあるのか。それを教えてくれたのが菊地さんの『もう
 ひとつの知床』だ。
問題の土地の名は岩尾別、ここでの開拓の歴史は三つの時代に分けられる。
  第一期は1914年(大正3年)、大正7年までに福島県から60戸が入植。バッタ被害などで24年(大正13年)ほと
 んどが離農。

 第二期は昭和戦前の1938年(昭和13年)本田正雄を団長として38戸が訓子府より入植。後に大半が離農。
 第三期は戦後開拓、昭和20年代より入植が始まり65戸となる。主に宮城県からの入植者。徐々に離農が始まり196
 6年(昭和41年)、全戸集団離農。

   
知床は世界自然遺産に登録された。このことに関して菊地さんは、「自然と人間の歴史は分かちがたく存在していると
 いうのに、自然だけが脚光を浴びて人間の歴史が欠落して行くのでは、世界自然遺産の理念に遠いのではないだろうか」
 と語っている。
   何時の頃からか知床は観光地になった。輝く太陽、蒼い海、緑の森林、町は活気にあふれ遊覧船には「知床旅情」が流れ
 て旅人の心を癒してくれる。色彩豊かな楽園のイメージである。そして、ここでも遠い記憶は忘れ去られる。

 
 先に私は紹介・批評の真似事はしないと書いた。ただ、少年であった私が見ていた斜里及びその周辺の歴史と風景が余り
 に表層的であったことを恥じるのみである。オホーツクの海辺の光と陰、私が観ていたのはその全体ではなく、限られた
 一部分でしかなかった。哀れむべし、これが私という人間の限界である。
  それはともかくとして、菊地さんの多産な活動の中に「流氷観測家」という一面がある。この方面に関するものは次の三
 冊である。『オホーツク氷岬紀行』、『流氷』、『流氷の見える丘から』。

 「氷岬」と書いて「ひょうきょう」と読むそうである。あとがきによると「この本は、航路標識事務所が管理する58の
 灯台をポイントにしたオホーツク沿岸の紀行です。灯台物語の部分を含めて、それぞれの地域の歴史や現状を記録し、流氷
 圏に生きる庶民の心情を少しでも描きだそうとしたものです」。
   土地の名は、能取、網走、鱒浦、宇登呂、相泊、知円別、羅臼、松法、於尋麻布、薫別、標津、野付埼、尾岱沼、幌茂尻、
 根室、ノッカマップ、温根元、納沙布、貝殻島、常呂、浜佐呂間、登栄床、紋別、沙留、沢木、雄武、元稲府、音稲府、音
 標、乙忠部、山臼、北見枝幸、目梨泊、北見神威、噸別、浜鬼志別、東浦、宗谷岬と延々と続く。

   
人の名は、木内宏(新聞記者)、吉井秀次(網走航路標識事務所)、戸川幸夫(小説家)、林亀吉(番屋老人)、森繁久
 弥(俳優)、加藤登紀子(歌手)、大木仁(漁師)、子出藤一松(漁師)、松浦武四郎(探検家)、武田泰淳(小説家)、
 高田宏(作家)、涌坂周一(羅臼郷土資料館)、大山寅吉(郵便配達人)、土井晩翠(詩人)、三浦綾子(小説家)、加賀
 伝蔵(アイヌ語通訳)、石野長太郎(元漁師)、ブラキストン(イギリスの動物学者)、寺島柾史(根室の作家)、飛騨屋
 久兵衛(場所請負人)、サンキチ(国後アイヌの酋長)、マメキリ(フルカマップの酋長)、ツキノエ(トウフツの酋長)、
 澤野栄子(コンブ労働者)、石井一弘(写真家)、小笠原敬(常呂漁業組合長)、渡辺淳一(小説家)、司馬遼太郎(小説
 家)、生田直親(小説家)、田宮虎彦(小説家)、原田康子(小説家)、山崎半蔵(津軽藩士)、最上徳内(探検家)、近
 藤重蔵(探検家)、間宮林蔵(探検家)、遠山金四郎景普(北町奉行遠山の金さんの父親)、更科源蔵(作家)、と有名無
 名を問わずの人名辞典である。しかし、これは単なる固有名詞の羅列ではない。土地の名、人の名は、それぞれその背景に
 かけがえのない物語を持っている。これは菊地さんの歩いた距離とその道標である、すなわちこれが精神の運動量とその軌
 跡である。
  さて、菊地さんには『流氷ほたるの海』と題する民話集がある。この本についてはご本人の解説が「あとがき」に載ってい
 るのでそれを写す。

  知床半島沿いの漁場に番屋が点々とあって、番屋守たちが越冬していたというのは、4、50年も前の古い話です。」
 「世界自然遺産という華やかなかけ声の中、自然や動物に焦点が当てられていますが、漁業に関わった人々の歴史の中で、
  番屋守の暮らしも【もうひとつの知床】として存在していたのです。私たちが失ってはならない時代、それは人間の隣
  りに人間がいた暮らしではないでしょうか。人も自然もゆっくり、ゆっくりと生き続けてゆくべきではないかと考えて
  います」。


   
春夏秋冬、そこでは人々の生活が時を刻んでいたのだ。それは時には地域の一編の風物詩であり、また時には一個人の祈
 りの夜想曲でもあった。この積み重ねが人生と呼ばれるものだ。

 聞き取り書きであれ、創作民話であれ、菊地さんの文章の運動の起点とするところは変わらない。それは、声なき者の声を
 聞くということである。記憶の風化に対する抵抗は、戦闘的ヒューマニズムという形をとる。ここに私は無償の代弁者の
 「清潔」と「誠実」を観るのである。菊地さんはこの戦いをたった一人でやってこられた。どの党派にも与せず、どの団体
 にも属せず、どの宗門にも係わらず、最初から最後まで「単独者」として不条理と向き合い、異議を唱え続けた。菊地さん
 が告発したものは、人間を辱めるもの、人間を貶めるもの、人間を踏みつけるもの、そういったありとあらゆる全体主義で
 ある。

   
次に拓くのは、『街にクジラがいた風景』である。サブタイトルは「オホーツクの捕鯨文化と庶民の暮らし」となってい
 る。
  この本は、菊地さんが手にした一枚の写真から始まる。その写真に写っている人々を探し出すことが最初の目的である。
 良質な探偵物語として読むことも可能だが、人物の捜索と特定の作業が進むにつれてやがてある時代全体の庶民の生活の
 風景が浮かび上がってくる。庶民列伝、これも歴史である。

  出発点は網走、到達点は紀州太地(たいじ)、片足を白鯨に食われたエイハブ船長のモビイ・デックを求めての航海日誌
 である。食われた片足とは私たちが経済的な繁栄を追い求める長い時間の中でいつの間にか忘れてしまった何ものかである。
 それはともかくとして、この本には鯨料理のレシピも載っていて、これがまた読ませるね。クジラ汁、竜田揚げ、ベーコン、
 おばけ(尾羽毛)の酢味噌和え、佃煮、酢味噌、茹で畝、ハリハリ鍋、クジラのスキヤキ、クジラの串カツ、と美味礼賛で
 ある。まだ陽は高いが、何となく喉に渇きを覚えるね。しかし、剣菱・菊正宗のことは別席に譲ろう。

  ある料理についてその主たる原材料が失われるということは、その地域を特徴づけていた生活の風景と詩情と食文化が失
 われるということだ。そうして失われたものは二度と取り戻すことは出来ない。
  さて、いよいよ沖縄である。
 この地は古くは琉球と呼ばれていた。時代は中世、李氏朝鮮王朝の知識人であり宰相でもあった申叔舟(シンスクチュ・
 1417~1475)が書いた『海東諸国紀』に当時の日本と琉球のことが書かれている。琉球の国俗については「地せ
 まく人多し。海舶の行商を以て業と為す。西は南蛮と中国に通じ、東は日本と我が国に通ず。日本と南蛮の商舶またその
 国都海浦に集まる。国人は肆(し)を浦辺に置き互市を為す」と。つまり琉球は貿易立国だということだ。
 
 では日本についてはどうか、「習性は強悍にして剣槊に精(たくみ)なり、舟楫(しゅうしゅう)に慣れ、我と海を隔て
 て相望む。」と警戒的である。この人が死に臨み、王に伝えた言葉は、「願わくは国家、日本と和を失うことなかれ」は
 あまりに有名である。分かりやすく言えば、何をしでかすか分からない危険な国だと言っているのだ。そして、この政治
  家の恐れていたことはこの後数世紀に渡って何度も現実のものになる。しかし、日韓の問題はここでは深入りしない。

 
 海を囲む中世とは、李氏朝鮮、倭国は室町幕府、琉球王国は第二尚氏王統、中国は明の時代であった。それは中国皇帝を
 頂点とする世界秩序(冊封体制)のことである。取りあえずこのことを確認しておく。この平和が破られるのは1609年
 の薩摩島津氏による侵攻によってである。
  
これによって琉球は薩摩藩の服属国となり独立を失う。いわゆる日清両属である。以上のところが「遠い記憶」である。
 
 では、「近い記憶」はどこから始まるのか

 1853年、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊は日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城に入
 った。
 「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」とはペリーの言葉であるが、既に帝国主義である。海の
 向こうにアメリカの軍艦が見えたこのあたりから「近い記憶」が始まるのだろう。

 
 沖縄学の父と称され敬愛された伊波普猷は、「自覚しない存在は悲惨である」といった。これは沖縄県民のことか、それ
 とも沖縄を植民地視する本土の人間のことか。伊波の同志であった河上肇は1911年(明治44)沖縄の土を踏んだ。
 
 そして舌禍事件を起こしてわずか1週間滞在しただけで沖縄を追われた。このとき河上は33歳、伊波は36歳であった。
 高良倉吉著『琉球王国』にはこの辺りの消息が詳しく書かれている。
 倉良さんは次のように書いている(25頁)。


   
河上が提示した問題は重要であった。多くの面で沖縄は強い独自性を帯びている、と彼が指摘したことをさしてそういう
 のではない。この程度の指摘なら、河上以前にも、河上以後にも、多くの知識人が行っている。重要だというのは、沖縄の
 独自性を日本社会の在り方に関連して指摘したことである。沖縄の特異性をみて、それを日本の思想的状況を批判する視点
 とした、その態度である。つまり、沖縄の帯びる独自性を正当に評価できない日本の思想状況や、沖縄の生かし方を真剣に
 考えない国家的枠組み、すなわち「忠君愛国」、国家心の旺盛さを金科玉条とする立場を批判した点が新鮮なのである。

 
  そして、再び懐かしの斜里に戻る。
 町名の由来は、アイヌ語の「サル」または「シャル」が転訛したもので、いずれも「アシが生えているところ」の意味であ
 る。因みに、ウトロの由来は、漢字表記は「宇登呂」、アイヌ語の「ウト
ルチクシ」で「その間を我々が通行するところ」。
 知床は、「シレトク」、陸地、大地、先端という意味だそうだ。
  斜里町の以久科(いくしな)という地区に井上徳男、富美子夫妻がいる。この夫妻の兄の名は清隆といい、沖縄で戦死して
 いる。その兄の遺骨を掘り出すために夫妻は連続14年、沖縄の戦跡に通い続けている。
 「これまでに井上夫妻が掘り出した遺骨は、673柱である」とこの本には書いてある。キクチ・ワールドの最後の一冊は
 沖縄で骨を掘る』だ。
  本を拓く。第1頁。

   
沖縄戦とは、1945年(昭和20)、太平洋戦争の末期に、住民を巻き込んで行われた日米軍の激戦のことをいう。
 
 沖縄戦は1944年(昭和19)の10月10日、那覇などを中心に行われた大空襲から幕を開け、45年の3月29日に、
 米軍は沖縄本島に1日数千発の艦砲射撃を浴びせた。4月1日、西海岸の嘉手納方面に上陸し、すぐに宜野湾まで進み、中部
 を攻撃し首里を占領、南部に向かった。敗れた日本軍は住民と共に戦線をさまよい、3月から4ヶ月にわたっての戦いで、一
 般住民と兵士併せておよそ20万人以上が犠牲になったとされる。南部へ敗走した日本軍は、牛島司令官が6月23日、摩文
 仁の壕で自決し、沖縄戦は事実上終息した。(降伏調印は9月7日)
およそ80日間の戦いの間に、兵士だけでなく
 防衛隊員や学徒隊員が犠牲になり、住民は米軍の攻撃の中で、集団自決を強要されたり、日本軍に追われたりした。住民にと
 っては米軍との戦いであると共に、日本軍との確執であり、飢餓とのたたかいという悲惨なものであった。
  沖縄戦の兵力と犠牲者は、日本軍約11万人、うち戦死者は約9万4千人、住民の犠牲者は約9万4千人である。米軍は空軍、
 海軍を含む)18万3千人、うち戦死者は1万2千520人というのが、沖縄県の発表であるが、住民については十数万人を
 数えているという研究もある。

 沖縄戦は米軍の本土上陸を防ぐための時間稼ぎであり、共生共死作戦の「捨て石」であったということが、戦後明らかにされ
 ている。

   
長い冬の間、私の精神(もしそんなものがあるとしてだが)は、キクチ・ワールドの外には一歩も出ることはなかった。
 机の上の八冊の本を毎日眺め、何度も何度も読み返して暮らした。

 雪が深々と降り続ける夜の静寂の中、私は田舎正宗を呑みながら時に北方紀行文集を追い、時にファッション・グラスの中
 の氷を鳴らしてバーボン・ウイスキーを味わいながら南方見聞録を拓き、この希有な戦闘的ヒューマニズムに学びの姿勢を
 とり続けた。こういう経験は初めてのことだ。

   
キクチ・ワールドとは、菊地慶一という人間がその全人生を賭けて構築した文章による一大事業のことである。
 言葉の最高度の意味で、正に「文は人なり」であって、ニーチェではないが、「この人を見よ」の世界である。

 
 本についてよく言われることだが、「多く語られる本は、多く読まれることがない。また多く読まれる本は多く語られること
 がない」という言葉がある。先の言葉の意味は、読まなくとも理解出来る本のことだ。後の言葉の意味は、簡単に理解される
 ことを拒絶する本のことだ。で、菊地さんの本がどちらに属するものなのかは特に説明の必要はないだろう。けれども194
 9年(昭和24)生まれの私は1932年(昭和7)生まれの菊地慶一さんという人間が書いた本が一人でも多くの人に読ま
 れることを願う、また一人でも多くの人に語り継がれることを望む。この17年の年齢差は決定的である。
  それは私が1945年を知らない世代の人間だということだ。

 『沖縄で骨を掘る』のあとがきは次の言葉から始まる。
 「人は二度死ぬと言われています。生命が絶えたときと、人々の記憶から消えた時です。記憶する人が死に絶えてしまった時、
 死者は本当の死者になるというのです」。

  
戦後70年の今は、そういう意味でも非常に危険な時代だと思う。
 在ったことが、無かったことにされる。記憶そのものが否定される。この卑しい、恥ずかしい、非人間的な国家主義の流れは
 何としても阻止しなければならない。
今こうしている間にも、沖縄では本土から送り込まれた機動隊が無抵抗の市民の手をね
 じり上げ、首を締め付け、蹴ちらかしている。海の上では海上保安庁が同じことをしている。白昼公然と暴力がまかり通って
 いるのだ。事あるごとに国民の生命と財産を守ると口にする政府の警察が国民をではなく米軍を守るために国民を攻撃してい
 るのだ。これが沖縄の「今と此処」である。そこで何が起こったのかを知ること、ここから始めなくてはならない。
 
何が「遠い記憶」であるかを知ること、そしてそれが「近い記憶」とどのように連続しているのか、または断絶しているのか
 を知ること。
  知ること、伝えること、そして戦うこと。